・・・三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 颯と朝風が吹通ると、山査子がざわ立って、寝惚た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと白みかかって、やわらかい羽毛を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の暗霧は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ……何と云ったも・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ただし地の名より人の名の起れる例は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿に乳を飲ませている者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌っている者。縞の美事な尾を振りながら日光のなかでつるんでいる者。しかめつらをして、せわしげにあちこちと散歩している者。 私は彼に囁いた。・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・昭和九年九月二十九日の早朝新宿駅中央線プラットフォームへ行って汽車を待っていると、湿っぽい朝風が薄い霧を含んでうそ寒く、行先の天気が気遣われたが、塩尻まで来るととうとう小雨になった。松本から島々までの電車でも時々降るかと思うとまた霽れたりし・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・屋上ではせんたく物を朝風に翻すおかみさんたちの群れもある。これらの画像の連続の間に、町の雑音の音楽はアクセレランドー、クレッセンドーで進行して行って、かくして一人の巨人としての「パリ」が目をさましてあくびをする。これだけの序曲が終わると同時・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
八月二十六日床を出でて先ず欄干に倚る。空よく晴れて朝風やゝ肌寒く露の小萩のみだれを吹いて葉鶏頭の色鮮やかに穂先おおかた黄ばみたる田面を見渡す。薄霧北の山の根に消えやらず、柿の実撒砂にかちりと音して宿夢拭うがごとくにさめたり・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・毎朝役所へ出勤する前、崖の中腹に的を置いて古井戸の柳を脊にして、凉しい夏の朝風に弓弦を鳴すを例としたが間もなく秋が来て、朝寒の或日、片肌脱の父は弓を手にした儘、あわただしく崖の小道を馳上って来て、皺枯れた大声に、「田崎々々! 庭に狐が居・・・ 永井荷風 「狐」
・・・と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。 七 忍が岡と太郎稲荷の森の梢には朝陽が際立ッて映ッている。入谷はなお半分靄に包まれ、吉原田甫は・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・』 各箇かの団体の、いろいろの彩布の大旗小旗の、それが朝風に飜って居る勇しさに、凝乎と見恍れてお居でなさった若子さんは、色の黒い眼の可怖い学生らしい方に押されながら、私の方を見返って、『なに大丈夫よ。私前に行くからね、美子さん尾いて・・・ 広津柳浪 「昇降場」
出典:青空文庫