・・・男が一度惚れたからにゃ、身を果すくらいは朝飯前です。火難、剣難、水難があってこそ、惚れ栄えもあると御思いなさい。」と、嵩にかかって云い放しました。すると婆はまた薄眼になって、厚い唇をもぐもぐ動かしながら、「なれどもの、男に身を果された女はど・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 前夜まで――唯今のような、じとじと降の雨だったのが、花の開くように霽った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は朝飯前……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・……我人ともに年中螻では不可ません、一攫千金、お茶の子の朝飯前という……次は、」 と細字に認めた行燈をくるりと廻す。綱が禁札、ト捧げた体で、芳原被りの若いもの。別に絣の羽織を着たのが、板本を抱えて彳む。「諸人に好かれる法、嫌われぬ法・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 省作は自分の分とはま公の分と、十把ばかり藁を湿して朝飯前にそれを打つ。おはまは例の苦のない声で小唄をうたいながら台所の洗い物をしている。姉はこんな日でなくては家の掃除も充分にできないといって、がたひち音をさせ、家のすみずみをぐるぐる雑・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・僕は朝飯前は書室を出ない。民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ おやじがこういうもんだから、一と朝起きぬきに松尾へ往った、松尾の兼鍛冶が頼みつけで、懇意だから、出来合があったら取ってくる積りで、日が高くなると熱くてたまんねから、朝飯前に帰ってくる積りで出掛けた、おらア元から朝起きが好きだ、夏でも冬・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・疾走する電車の中にいる知人を、歩道をぶらついている最中に眼ざとく見つけるなど朝飯前である。雑閙の中で知人の姿を見つけるのも巧い。ノッポの一徳でもあろうが、とにかく視力はすぐれているらしい。だからと言って、僕はべつに自分が頭脳優秀だとも才能豊・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・わが物顔のその面を蹂み躙るのは朝飯前だ。おれを知らんか。おれを知らんか。はははははさすがは学者の迂濶だ。馬鹿な奴。いやそろそろ政略が要るようになった。妙だぞ。妙だぞ。ようやく無事に苦しみかけたところへ、いい慰みが沸いて来た。充分うまくやって・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・こんな事は朝飯前だ。外の餓鬼が笊に一ぱい遣るうちに、己は二はい遣るのだ。百姓奴びっくりしやぁがった。そして言草が好いや。里芋の選分は江戸の坊様に限ると抜かしやぁがる。」「そのうち、もう江戸へ帰っても好さそうだというので、お袋と一しょに帰・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
出典:青空文庫