・・・前日の軽はずみをいささか後悔していた紀代子は、もう今日は相手にすまいと思ったが、しかし今日こそ存分にきめつけてやろうという期待に負けて、並んで歩いた。そして、結局は昨日に比べてはるかに傲慢な豹一に呆れてしまった。彼女の傲慢さの上を行くほどだ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ ちかごろヴィタミンCやBの売薬を何となく愛用している私は、いもりの黒焼の効能なぞには自然疑いをもつのであるが、けれども仲の悪い夫婦のような場合は、効能が現われるという信念なり期待なりを持っていると、つい相手の何でもない素振りが自分に惚・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 彼の期待は外れて、横井は警官の説諭めいた調子で斯う繰り返した。「そうかなあ……」「そりゃそうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに来給え」「そうか。ではいずれ引越したらお知らせする」 斯う云って、彼は張合い抜けのした・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・の地図を書いて教えたことや、その男の頑なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識、もしやという期待で白い人影をその闇のなかに探している・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ この径を知ってから間もなくの頃、ある期待のために心を緊張させながら、私はこの静けさのなかをことにしばしば歩いた。私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつも氷室から来るような冷気が径へ通っているところだった。一本の古びた筧がその奥の小暗いな・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・そういう愛を互いに期待すべきだ。だからこのごろときどき耳にする恋愛結婚より、見合結婚の方がましだなどと考えずに結婚に入る門はやはりどこまでも恋愛でなくてはならぬ。純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ そこで日蓮は今度こそ幕府から意見を徴せらるることを期待したが、やはり何の沙汰もなかった。日蓮はここにおいて決するところあり、自ら進んで、積極的に十一通の檄文を書いて、幕府の要路及び代表的宗教家に送って、正々堂々と、公庁が対決的討論をな・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・兵卒達の顔には何かを期待する色が現れていた。将校は、穴や白樺や、兵卒の幾分輝かしい顔色を意識しつゝ、なお、それ等から離れて、ほかの形而上的な考えを追おうとしている様子が見えた。 小川を渡って、乾草の堆積のかげから、三人の憲兵に追い立てら・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ わたくしが死刑を期待して監獄にいるのは、瀕死の病人が、施療院にいるのと同じである。病苦がはなはだしくないだけ、さらに楽かも知れぬ。 これはわたくしの性の獰猛なのによるか。痴愚なるによるか。自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・この決してズロースを忘れない娘さんに対する毎日々々の「期待」が、蒸しッ返えしの長い長い二十九日を、案外のん気に過ごさしてくれたようである。勿論その間に、俺は二三度調べに出て、竹刀で殴ぐられたり、靴のまゝで蹴られたり、締めこみをされたりして、・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫