・・・人間よりも年長者で人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれに備える事を心得ているか少なくもみずから求めて災難を招くような事はしないようであるが、人間は先祖のアダムが知恵の木の実を食ったおかげで数万年来受けて来た・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・極の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・さらばこれらのものを総称して何というかといえば、木の実というのである。木の実といえば栗、椎の実も普通のくだものも共に包含せられておる理窟であるが、俳句では普通のくだものは皆別々に題になって居るから、木の実といえば椎の実の如き類の者をいうよう・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ある年非常な饑饉が来て、米もとれねば木の実もならず、草さえ枯れたことがござった。鳥もけものも、みな飢え死にじゃ人もばたばた倒れたじゃ。もう炎天と飢渇の為に人にも鳥にも、親兄弟の見さかいなく、この世からなる餓鬼道じゃ。その時疾翔大力は、まだ力・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・、大仕掛の山葵卸のようなそれ等の巖のギザギザに引っかかったまま固着したのか、または海中噴火でもし、溶岩が太平洋の波に打たれ、叩かれ、化学的分解作用で変化して巖はそんな奇妙なものとなり、熱い地面に南洋の木の実が漂いついて根を卸したのか、わから・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
・・・雪の降る日に小兎は、あかい木の実のたべたさに親の寝た間に山を出で城の門まで来は来たが赤い木の実は見えもせず路は分らず日は暮れる長い廊下のまどの下何やら赤いものがある、そっとしのむで来て見ればこは姫・・・ 宮本百合子 「旅人(一幕)」
・・・ 日本のように温和な自然に取囲まれ、海には魚介が満ち、山には木の実が熟し、地は蒔き刈りとるに適した場所に生きては、あの草茫々として一望限りもない大曠野の嵐や、果もない森林と、半年もの晴天に照りつけられる南方沙漠の生活とは、夢にも入るまい・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・未開な暗さのあらゆる隅々に溢れる自然の創造力の豊かさを驚き崇拝した原始の人類にとって、自分たちに性の別があってその結合の欲望は押え難く彼等を狂気にし、その狂気への時期が過ぎてある時がたつと、女の体は木の実のように丸くなってそこから人間そっく・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・ 頬笑み、木の実のような頬をしたみのえの手をとって、彼は、「こっちへおいで」と立ち上った。 彼は掃かない座敷の真中に突立って、確りみのえを擁きよせた。そして、幾つも幾つもキスし、自分の体をぐうっとかぶせてみのえを後へ反せるよ・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
・・・深山に人跡を探れ、太古の民は木の実を食って躍っている。ロビンフッドは熊の皮を着て落ち葉を焚いている、彼らの胸には執着なく善なく悪なし、ただ鈍き情がある。情が動くままに体が動く、花が散ると眠り鳥がさえずると飛び上がる。詩人ジョン・キーツはこの・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫