・・・現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂宮の縁下に共臥りをします、婆々媽々ならいつでも打ちも蹴りもしてくれましょうが、それでは、念が届きませぬ。はて乞食が不心得したために、お生命まで・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・そして、日暮れに木賃宿へ帰ってきて泊まりました。彼は、ほかにいって泊まるところがなかったからです。 この木賃宿には、べつに大人の乞食らがたくさん泊まっていました。そして、彼らは、その日いくらもらってきたかなどと、たがいに話し合っていまし・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ 銭占屋はそのまま目を閉じて、じっと枕につっ伏した。木賃宿の昼は静かで、階下では上さんの声もしない。「ああ浪の音か。」としばらくしてから顔を挙げた。「俺あまた風の音かと思った。これから何だね、ゴーッて足まで掠ってきそうな奴が吹くんだ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・白いし、自分から言うのはおかしいが、まア美少年の方だったので、中学生の頃から誘惑が多くて、十七の歳女専の生徒から口説かれて、とうとうその生徒を妊娠させたので、学校は放校処分になり、家からも勘当された。木賃宿を泊り歩いているうちに周旋屋にひっ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・料亭よりも小料理屋やおでん屋が好きで、労働者と一緒に一膳めし屋で酒を飲んだりした。木賃宿へも平気で泊った。どんなに汚ないお女郎屋へも泊った。いや、わざと汚ない楼をえらんで、登楼した。そして、自分を汚なくしながら、自虐的な快感を味わっているよ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街の塵に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被るのであろう。容貌は長い方で、鼻も高く眉毛も濃く、額は櫛を加えたこともない蓬々とした髪で半ばおおわれているが、見た・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ 彼はかく労働している間、その宿所は木賃宿、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。 日清の間が切迫してくるや、彼はすぐと新聞売りになり、号外で意外の金を儲けた。 かくてその歳も暮れ、二十八年の春になって、彼・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・、八丁堀の路地に小さいおでんやの屋台を出し、野良犬みたいにそこに寝泊りしていたのですが、その路地のさらに奥のほうに、六十過ぎの婆とその娘と称する四十ちかい大年増が、焼芋やの屋台を出し、夜寝る時は近くの木賃宿に行き、ほとんど私同様、無一物の乞・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・やはり人気ないそこの白い街道を歩いていたら、すぐ前の木賃宿の二階で義太夫のさわりが聞えた。ガラリと土間の障子が開いて、古びた水色ヴェールを喉に巻きつけた女が大きな皿を袖口に引こめた手で抱えて半身を現した。「五十銭だよ」 生欠伸をする・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
・・・ │ └────────────┘ 木賃宿である。 案内人は立ち上らず坐席から首だけのばして大きくない声で説明した。――ここいらが皆有名な東端の一階家です。 再び暗い街。暗い街。暗い建物のさけ目から一層黒い夜・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫