・・・で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた、というようにでも書き続けて行こうとも思って、夕方近くなって机に向ったのだったが、年暮れに未知の人からよこされた手紙のことが、竦然とした感じでふと思いだされて、自分はペンを措いて鬱ぎ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある瞬間が過ぎた。――喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・青春は浪曼性とともにある。未知と被覆とを無作法にかなぐり捨てて、わざと人生の醜悪を暴露しようとする者には、青春も恋愛も顔をそむけ去るのは当然なことである。 三 恋愛の本質は何か 恋愛とは何かという問題は昔から種々なる・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 先日、未知の詩人から手紙をもらった。その人も明治四十二年六月十九日の生れの由である。これを縁に、一夜、呑まないか、という手紙であった。私は返事を出した。「僕は、つまらない男であるから、逢えばきっとがっかりなさるでしょう。どうも、こわい・・・ 太宰治 「六月十九日」
・・・この剽軽な、しかし要を得た説明は子供の頭に眠っている未知の代数学を呼び覚ますには充分であった。それから色々の代数の問題はひとりで楽に解けるようになった。始めて、幾何学のピタゴラスの定理に打つかった時にはそれでも三週間頭をひねったが、おしまい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・しかしその未知の扉にぶつかってこれを開く人があるとすれば、その人はやはり案内者などのやっかいにならない風来の田舎者でなければならない。第三の扉の事はいかに権威ある案内記にも誌してないのである。 思うにうっかり案内者などになるのは考え・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・最後に愉快なルンペン、ルイとエミールが向かって行く手の道路の並行直線のパースペクチヴが未知なる未来への橋となって銀幕の奥へ消えて行くのである。 音響効果としていろいろなモチーフが繰り返される。たとえば刑務所と工場の仕事場では音楽に交じる・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・子供が将来何者になるかは未知の事に属する。これを憂慮すれば子供はつくらぬに若くはない。 わたくしは既に中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある。これは戯語でもなく諷刺でもない。窃・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行を逐って読過せしめる所以ともなるのであろう。この間の消息は直にわたくしが身の上に移すことが出来る。・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知もしくは未知の或ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通も受取った。伊予にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の・・・ 夏目漱石 「博士問題とマードック先生と余」
出典:青空文庫