・・・合せ目も中透いて、板も朽ちたり、人通りにはほろほろと崩れて落ちる。形ばかりの竹を縄搦げにした欄干もついた、それも膝までは高くないのが、往き還り何時もぐらぐらと動く。橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・けると、その扱帯もその帯留も、お納戸の袷も、萌黄と緋の板締の帯も、荒縄に色を乱して、一つも残らず、七兵衛が台所にずらりと懸って未だ雫も留まらないで、引窓から朝霧の立ち籠む中に、しとしとと落ちて、一面に朽ちた板敷を濡しているのは潮の名残。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿しましたっけ。古新聞で火をつけて、金網をかけました。処で、火気は当るまいが、溢出ようが、皆引掴んで頬張る気だか・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ただその朽ちて行くにおいが生命だ。 こう思うと、僕の生涯が夢うつつのように目前にちらついて来て、そのつかまえどころのない姿が、しかもひたひたと、僕なる物に浸り行くようになった。そして、形あるものはすべて僕の身に縁がないようだ。 僕の・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・このままこの国に朽ちてしまって土となるよりは、生まれ変わって幸福の島へゆくことがどれほど楽しい愉快なことであるかしれなかったからです。 そして、海の中に身を投げて死ぬほどの勇気もなく、いたずらに、醜く年を取って木の枯れるように死んでしま・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・その時分には、いつか小鳥の声をきいて、その姿を見たいといっていたすみれの花も、また、小鳥からこちょうの姿をきいて、一目見たいといっていたぼけの花も、朽ちて土となって、まったくその影をとどめなかったのでありました。 たんぽぽの花は、こちょ・・・ 小川未明 「いろいろな花」
・・・やっと、日暮れ前に、一つの丸木橋を見いだしましたので、彼女は、喜んでその橋を渡りますと、木が朽ちていたとみえて、橋が真ん中からぽっきり二つに折れて、娘は水の中におぼれてしまいました。「死んでも、魂だけは、故郷に帰りたい。」と、死のまぎわ・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・しかしその谷に当ったところには陰気なじめじめした家が、普通の通行人のための路ではないような隘路をかくして、朽ちてゆくばかりの存在を続けているのだった。 石田はその路を通ってゆくとき、誰かに咎められはしないかというようなうしろめたさを感じ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そのあたりから――と思われた――微かな植物の朽ちてゆく匂いが漂って来た。「君の部屋は仏蘭西の蝸牛の匂いがするね」 喬のところへやって来たある友人はそんなことを言った。またある一人は「君はどこに住んでも直ぐその部屋を陰鬱にしてしま・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そして筧といえばやはりあたりと一帯の古び朽ちたものをその間に横たえているに過ぎないのだった。「そのなかからだ」と私の理性が信じていても、澄み透った水音にしばらく耳を傾けていると、聴覚と視覚との統一はすぐばらばらになってしまって、変な錯誤の感・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
出典:青空文庫