・・・ 二 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くという・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ましてすでに結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない情事的、享楽的漁色的材料から帰納されたものが多いのであって、青年学生の恋愛観にとっては眉に唾すべきものである。 結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。たと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・僕等の前には、ゴーゴリや、モリエールによって取扱わるべき材料がうようよしている。 今は小説を書くために、小説を書いている人間はいくらでもいるが、本当に、ペンをとってブルジョアを叩きつぶす意気を持ってかゝっている者は、五指を屈するにも足り・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・もう繕いようもどうしようも無い、全く出来損じになる。材料も吟味し、木理も考え、小刀も利味を善くし、力加減も気をつけ、何から何まで十二分に注意し、そして技の限りを尽して作をしても、木の理というものは一々に異う、どんなところで思いのほかにホロリ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・裁縫の材料、材料で次ぎから次ぎへと追われている末子が学校でのけいこに縫った太郎の袷羽織もそこへでき上がった。それを柳行李につめさせてなどと家のものが語り合うのも、なんとなく若者の旅立ちの前らしかった。 次郎の田舎行きは、よく三郎の話にも・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・同日午後五時に、山本伯の内閣が出来上り、それと同時に非常徴発令を発布して、東京および各地方から、食料品、飲料、薪炭その他の燃料、家屋、建築材料、薬品、衛生材料、船その他の運ぱん具、電線、労務を徴発する方法をつけ、まず市内の自動車数百だいをと・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・とにかく黄村先生は、ご自分で大いなる失敗を演じて、そうしてその失敗を私たちへの教訓の材料になさるお方のようでもある。 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ この日記がなくとも、『田舎教師』はできたであろうけれども、とにかくその日記が非常によい材料になったことは事実であった。ことに、死一年前の日記が……。 この日記は、あるいはこの小林君の一生の事業であったかもしれなかった。私はその日記・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・ それで私は有り合せの手近な材料から知り得られるだけの事をここに書き並べて、この学者の面影を朧気にでも紹介してみたいと思うのである。主な材料はモスコフスキーの著書に拠る外はなかった。要するに素人画家のスケッチのようなものだと思って読んで・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・『今戸心中』はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼にあった情死を材料にしたものだという。しかし中米楼は重に茶屋受の客を迎えていたのに、『今戸心中』の叙事には引手茶屋のことが見えていない。その頃裏田圃が見えて、そして刎・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫