・・・こはおもしろしと走り寄りて見下せば、川は開きたる扇の二ツの親骨のように右より来りて折れて左に去り、我が立つところの真下の川原は、扇の蟹眼釘にも喩えつべし。ところの名を問えば象が鼻という。まことにその名空しからで、流れの下にあたりて長々と川中・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・三の戸、金田一、福岡と来りしが、昨日は昼餉たべはぐりてくるしみければ今日はむすび二ツもらい来つ、いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六厘と云う。三つばかり買いてなお進み行くに、路傍に清水いづるところあり。椀さえ添えたるに、こしか・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・大なる石は虚空より唸りの風音をたて隕石のごとく速かに落下し来り直ちに男女を打ちひしぎ候。小なるものは天空たかく舞いあがり、大虚を二三日とびさまよひ候。」 私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感して戦慄した。私のこれまでの生涯に於・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・とにつき従い、やがて、エルサレムの宮が間近になったころ、あの人は、一匹の老いぼれた驢馬を道ばたで見つけて、微笑してそれに打ち乗り、これこそは、「シオンの娘よ、懼るな、視よ、なんじの王は驢馬の子に乗りて来り給う」と予言されてある通りの形なのだ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・それがただ一艘ならばまだしも、数え切れぬほど沢山の飛行機が、あとからもあとからも飛び来り飛び去るのである。この光景の映写の間にこれと相錯綜して、それらの爆撃機自身に固定されたカメラから撮影された四辺の目まぐるしい光景が映出されるのである。こ・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・同席なりし東も来り野並も来る。 こゝへ新に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬に薄紅さして面はゆげなり。・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“来り聴け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そし・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ わたくしはこの年から五、六年、図らずも旅の人となったが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思いをなさねばならなかった。仲の町にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の燈影」というような町の眺めの調和が破られ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して見られない者も多く来り集っていた。其夜演奏が畢って劇場を出・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・れうれしやと思う間もなく鉄道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自転車を蹴飛す、相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く、間の抜さ加減は尋常一様にあらず、この時派出やかなるギグに乗って後ろから馳け来りたる一個の紳士、策を揚げざまに余が方・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
出典:青空文庫