・・・そしてある辻まで来ると、かれは小さな糸くずが地上に落ちているのを見つけた。このアウシュコルンというのはノルマン地方の人にまがいなき経済家で、何によらず途に落ちているものはことごとく拾って置けば必ず何かの用に立つという考えをもっていた。そこで・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・昔からドラアムやなんぞで、人物を時と所とに配り附けた上に出来るものを言うではないか。ヘルマン・バアルが旧い文芸の覗い処としている、急劇で、豊富で、変化のある行為の緊張なんというものと、差別はないではないか。そんなものの上に限って成り立つとい・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。 翌日は朝から晩まで、亭主が女房の事を思い、女房が亭主の事を思っている。そのくせ互に一言も物は言わない。 ある日の事である。ちょうど土曜日で雨が降っていた。ツァウォツキイは今一人の破・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方,尾花の招引につれられて寄り来る客は狐か、鹿か、または兎か、野馬ばかり。このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、このころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情な・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱とがある。 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、ある日の午前であった。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・一体気分が好くないのだから、こんなことを見付けて見れば、気はいよいよ塞いで来る。紙巻烟草に火を附けて見たが、その煙がなんともいえないほど厭になったので、窓から烟草を、遠くへ飛んで行くように投げ棄てた。外は色の白けた、なんということもない三月・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・その殿様というのはエラソウで、なかなか傲然と構えたお方で、お目通りが出来るどころではなく、御門をお通りになる度ごとに徳蔵おじが「こわいから隠れていろ」といい/\しましたから、僕は急いで、木の蔭やなんかへかくれるんです。ですがその奥さまという・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこのジメジメした気分を側の者に振りかけなければいられないほど弱くはありません。しかし人の前でそれを少しも顔に出さない・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫