・・・が、そこに滞在して、敵の在処を探る内に、家中の侍の家へ出入する女の針立の世間話から、兵衛は一度広島へ来て後、妹壻の知るべがある予州松山へ密々に旅立ったと云う事がわかった。そこで敵打の一行はすぐに伊予船の便を求めて、寛文七年の夏の最中、恙なく・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 僕は冬の西日の当った向うの松山を眺めながら、善い加減に調子を合せていた。「尤も天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だって云うんですが」「雨の降る日に濡れに来るんじゃないか?」「御常談で。……しかしレエン・・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・天女と、描ける玉章を掻乱すようで、近く歩を入るるには惜いほどだったから…… 私は――(これは城崎関弥 ――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。 小店の障・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・奥に松山を控えているだけこの港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日麗かに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに殷々しくしていた。叫ぶもの呼・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・明戸を出はずるる頃、小さき松山の行く手にありて、それにかかれる坂路の線の如くに翠の影の中に入れるさま、何の事はなけれど繕わぬ趣ありておもしろく見えければ、寒月子はこれを筆に写す。おとう坂というところとかや。菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがた・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・末の松山を此地という説もあり。いずれに行くとも三十里余りを経ずば海に遇うことはなり難かるべし。但し貝の化石は湯田というところよりいづるよしにて処々に売る家あり、なかなか価安からず。かくてすすむほどに山路に入りこみて、鬱蒼たる樹、潺湲たる水の・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・少し松山訛の交じった特色のある読み方で、それが当時の『ホトトギス』の気分と密接な関係のあったもののように感ぜられる。 私が生れて初めて原稿料というものを貰って自分で自分に驚いたのは「団栗」という小品に対して高浜さんから送られた小為替であ・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・ 学校ではオピアムイーターや、サイラス・マーナーを教わった。松山中学時代には非常に綿密な教え方で逐字的解釈をされたそうであるが、自分らの場合には、それとは反対にむしろ達意を主とするやり方であった。先生がただすらすら音読して行って、そうし・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」 伊都喜というのは、道太の兄のやっている会社の社長の弟であった。 それからその一家・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の茸狩に、秋晴の日の短きを歎いているにちがいない。三門の町を流れる溝川の水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。 待つ心は・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫