・・・「ははは、勝手に道楽で忙しいんでしてな、つい暇でもございまするしね、怠け仕事に板前で庖丁の腕前を見せていた所でしてねえ。ええ、織さん、この二、三日は浜で鰯がとれますよ。」と縁へはみ出るくらい端近に坐ると一緒に、其処にあった塵を拾って、ト・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子をと云うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中の素気なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中寂寞とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・道太はちょっと板前の心得のありそうな老母の手つきを、からかい半分に眺めていた。「庖丁はさびていても、手が切れるさかえ」老母はそう言って、刃にさわって見ていた。 やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ご・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・合宿先である福田屋旅館の板前さんまでただごとならぬはりきりかたで、選手のかたは一日一里以上も泳ぐのですから、食事についても十分気をつけてと、もの惜しみしない談話が新聞にのっている。その記事を四、五人の男が珍しそうに大切そうに顔をさしのばして・・・ 宮本百合子 「ボン・ボヤージ!」
出典:青空文庫