・・・今までの己が一夜の中に失われて、明日からは人殺になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。この両の手が血で赤くなった時を想像して見るが好い。その時の己は、己自身にとって、どのくらい呪わしいものに見えるだろう。それも己の憎む相手・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・妻はおずおずと戸を閉めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・が、真夏などは暫時の汐の絶間にも乾き果てる、壁のように固まり着いて、稲妻の亀裂が入る。さっと一汐、田越川へ上げて来ると、じゅうと水が染みて、その破れ目にぶつぶつ泡立って、やがて、満々と水を湛える。 汐が入ると、さて、さすがに濡れずには越・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・参詣が果てると雑煮を祝って、すぐにお正月が来るのであったが、これはいつまでも大晦日で、餅どころか、袂に、煎餅も、榧の実もない。 一寺に北辰妙見宮のまします堂は、森々とした樹立の中を、深く石段を上る高い処にある。「ぼろきてほうこう。ぼ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・舞わし、太刀をかざして、頤から頭なりに、首を一つぐるりと振って、交る交るに緩く舞う。舞果てると鼻の尖に指を立てて臨兵闘者云々と九字を切る。一体、悪魔を払う趣意だと云うが、どうやら夜陰のこの業体は、魑魅魍魎の類を、呼出し招き寄せるに髣髴として・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・何とやらして空飛ぶ鳥は、どこのいずこで果てるやらって唄があるが、まったく私らの身の上さね。こうやってトドの究りは、どこかの果の土になるんだ。そりゃまあいいが、旅で死んだ日にゃ犬猫も同じで、死骸も分らなけりゃ骨も残らねえ――残しておいてもしよ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・あのボオドレエルの詩の中にあるような赤熱の色に燃えてしかも凍り果てるという太陽は、必ずしも北極の果を想像しない迄も、巴里の町を歩いて居てよく見らるるものであった。枯々としたマロニエの並木の間に冬が来ても青々として枯れずに居る草地の眺めばかり・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
出典:青空文庫