・・・ 或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容貌は十人並で、ただ愛嬌のある女というに過ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・僕は気の毒に思った、その柔和な顔つきのまだ生き生きしたところを見て、無残にも四足を縛られたまま松の枝から倒さに下がっているところを見るとかあいそうでならなかった。 たちまち小藪を分けてやッて来たのは猟師である。僕を見て『坊様、今に馬・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・かすかに覚えているところでは父は柔和い方で、荒々しく母や自分などを叱ったことはなかった。母に叱られて柱に縛りつけられたのを父が解てくれたことを覚えている。その時母が父にも怒を移して慳貪に口をきいたことをも思い出し、父のこと母のこと、それから・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処までも優しいところを梅子嬢は十二分に有ておられる。これには貴所も御同感と信ずる。もし梅子嬢の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・むしろわれわれが要望するのは最も柔和なる者の獅子吼である。最も優美なる者の烈々たる雄叫びである。そしてキリストも日蓮も実はかかる性格者の典型であった。 その内心に私を蔵する者は予言者たり得ない。そのたましいに「天」を宿さぬものは予言者た・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・向ヶ丘遊園地で見た母猿の如きはその目や、眉や、頬のあたりに柔和な、精神性のひらめきさえ漂うているような気がした。 母親の抱擁、頬ずり、キッス、頭髪の愛撫、まれには軽ろい打擲さえも、母性愛を現実化する表現として、いつまでも保存さるべきもの・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・と云いながら、雲は無いがなんとなく不透明な白みを持っている柔和な青い色の天を、じーっと眺め詰めた。お浪もこの夙く父母を失った不幸の児が酷い叔母に窘められる談を前々から聞いて知っている上に、しかも今のような話を聞いたのでいささか涙ぐんで茫・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それゆえに高雅、車夫馬丁を常客とする悪臭ふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋の葱をつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもと・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ 年のころ三十七、八、猫背で、獅子鼻で、反歯で、色が浅黒くッて、頬髯が煩さそうに顔の半面を蔽って、ちょっと見ると恐ろしい容貌、若い女などは昼間出逢っても気味悪く思うほどだが、それにも似合わず、眼には柔和なやさしいところがあって、絶えず何物・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ときの巡査は今日出会った三人の中ではいちばん柔和で愛嬌のある人であったが「いったいどこへ行くんだ」「東京です」「東京なら此方へ来ちゃダメだぞ。とんでもない処へ行っちまうぜ」と云うので、教えられたままにそこから直角に曲って南へ正しい街道を求め・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
出典:青空文庫