・・・私も、根からの馬鹿では無い。その夜かぎり、粋人の服装を、憤怒を以て放擲したのである。それからは、普通の服装をしているように努力した。けれども私の身長は五尺六寸五分であるから、街を普通に歩いていても、少し目立つらしいのである。大学の頃にも、私・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・藁帽に麻の夏服を着ているのはいいが、鼻根から黒い布切れをだらりとたらして鼻から口のまわりをすっかり隠している。近づくと帽子を脱いで、その黒い鼻のヴェールを取りはずしはしたが、いっこう見覚えのない顔である。「私はNの兄ですが、いつかお尋ねした・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・ 箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。 お絹は・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・もう六つ、日の出を見れば、夜鴉の栖を根から海へ蹴落す役目があるわ。日の永い国へ渡ったら主の顔色が善くなろうと思うての親切からじゃ。ワハハハハ」とシワルドは傍若無人に笑う。「鳴かぬ烏の闇に滅り込むまでは……」と六尺一寸の身をのして胸板を拊・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・独りで働いて学校も出、身の囲りの事もしとるのやさかい、手塩にかけんで間違いが出ければ皆、力の足りぬ親が悪いのやさかい…… お節は、二十二三になる頃までにはあの社で一かどの者になれる望がこの事で根からひっくり返って仕舞わないかと云う不・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ パリが今にも包囲されるという噂が、人心を根からゆすっているのであった。マリアは固く口をつぐんで、自分の身を明さなかったが、それらの群衆に向って、パリは持ちこたえるだろうということ、市民は危険にさらされないだろうということを話して聞かせた。・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・そして日本の天皇制的ファシズムに根からやられてしまったのです。私たちは治安維持法のようなものは、もう二度とごめんです。二度とごめんなものを存在させないためには、その存在を欲しない人民の意志が文学を含む社会現象の全面に主張され、実現されなけれ・・・ 宮本百合子 「討論に即しての感想」
・・・ 麦粉菓子の薄いような香いが、乾いて行くの根から静かにあたりに漂っていた。 すると、昼過ぎになって、突然海老屋の番頭だという男が訪ねて来た。 昨日のお礼を云いたいから、店まで一緒に来てくれと云うのである。 いろいろ言葉に綾を・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいもので・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫