・・・部屋は根津界隈を見晴らす二階、永井荷風氏の日和下駄に書かれたると同じ部屋にあらずやと思う。その頃の先生は面の色日に焼け、如何にも軍人らしき心地したれど、謹厳などと云う堅苦しさは覚えず。英雄崇拝の念に充ち満ちたる我等には、快活なる先生とのみ思・・・ 芥川竜之介 「森先生」
・・・一体この男には、篠田と云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下もし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪と云って、根津や、鶯谷では見られない、田舎には珍らしい、佳い女が居る・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・人通りのない町はひっそりしていた。根津を抜けて帰るつもりであったが頻繁に襲って来る余震で煉瓦壁の頽れかかったのがあらたに倒れたりするのを見て低湿地の街路は危険だと思ったから谷中三崎町から団子坂へ向かった。谷中の狭い町の両側に倒れかかった家も・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・ 根津辺の汚い下宿屋で極めて不規則な生活を送っている。一日何もしないで煙草ばかり吹かして寝たり起きたり四畳半に転がっている事もあれば、朝から出かけて夜の二時頃まで帰らぬ事がある。そうかと思うと二、三日風呂にも行かず夜更まで机へすがったき・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・ 桜花は上野の山内のみならず其の隣接する谷中の諸寺院をはじめ、根津権現の社地にも古来都人の眺賞した名木が多くある。斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内・・・ 永井荷風 「上野」
・・・、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳にしない。当時入谷には「松源」、根岸に「塩原」、根津に「紫明館」、向島に「植半」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかった。『今・・・ 永井荷風 「里の今昔」
根津の大観音に近く、金田夫人の家や二弦琴の師匠や車宿や、ないし落雲館中学などと、いずれも『吾輩は描である』の編中でなじみ越しの家々の間に、名札もろくにはってない古べいの苦沙弥先生の居は、去年の暮れおしつまって西片町へ引・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。その道が、団子坂から折れて入ったばかりの片側は柵の結ばれた崖で、土どめをうった段々が、崖下へ向ってつけられていた。・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・家の中はそう云う時に有り勝な一種何とも云い様のない寂しさがみちて居るけれ共そのしずかな部屋のまどの外はもう気の狂った様なにぎやかさである。根津さんと白山さまの御祭り、この二つの人気をうきうきさせる事が重なった時に――若い男の頬が酒でうす赤く・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
出典:青空文庫