明治倶楽部とて芝区桜田本郷町のお堀辺に西洋作の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了った。 この倶楽部が未だ繁盛していた頃のことである、或年の冬・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・恭二君は明治十年十月二十四日東京で生れ、芝桜田小学校から日本中学校に入り故杉浦重剛氏の薫陶を受けた。第一高等学校を経て東京帝国工科大学造船学科へ入学し、明治三十三年卒業した。高等学校時代厳父の死に会い、当時家計豊かでなかったため亡父の故旧の・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・振袖火事として知られた明暦の大火は言うまでもなく、明和九年二月二十九日の午ごろ目黒行人坂大円寺から起こった火事はおりからの南西風に乗じて芝桜田から今の丸の内を焼いて神田下谷浅草と焼けつづけ、とうとう千住までも焼け抜けて、なおその火の支流は本・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷一重のさし向い、安らかに眠っている。今日の我らが人情の眼・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・これは祖先以来の出入先で、本郷五丁目の加賀中将家、桜田堀通の上杉侍従家、桜田霞が関の松平少将家の三家がその主なるものであった。加賀の前田は金沢、上杉は米沢、浅野松平は広島の城主である。 文政の初年には竜池が家に、父母伊兵衛夫婦が存命して・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・婆あさんは伊織の妻るんと云って、外桜田の黒田家の奥に仕えて表使格になっていた女中である。るんが褒美を貰った時、夫伊織は七十二歳、るん自身は七十一歳であった。 ―――――――――――――――― 明和三年に大番頭になった・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・ついで外桜田の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫