・・・ところが、自分の研究所のW君のにいさんが奈良県の技師をしておられるというので、これに依頼して、本場の奈良で詮議してもらったら、さっそく松井元泰編「古梅園墨談」という本を見つけて送ってくれたので、始めてだいたいの具体的知識に有りついた。なお後・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯タンクになっていた処もあった。樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・わたくしをつれて城内の梅園に昼飯を食べに出掛けた。その頃、小田原の城跡には石垣や堀がそのまま残っていて、天主台のあった処には神社が建てられ、その傍に葭簀張の休茶屋があって、遠眼鏡を貸した。わたくしが父に伴われて行った料理茶屋は堀端に生茂った・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・ 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水害を蒙ってから今は遂に一株をも存せぬようになった。水害の前の年、園中には尚数株の梅の残っていた頃である。花候の一日わたく・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫