・・・ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわて・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段を駆け降りるように二階から降りて行った。 私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでも・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ やがて末子は二階から降りて来た。梯子段の下のところで、ちょっと私に笑って見せた。「きょうは眠くなっちゃった。」「春先だからね。」 と、私も笑って、手本で疲れたらしい娘を慰めようとした。 間もなく次郎も一枚の習作を手にし・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・二階から降りて行って梯子段の上り口から小声で佐吉さんを呼び、「あんな出鱈目を言ってはいけないよ。僕が顔を出されなくなるじゃないか。」そう口を尖らせて不服を言うと、佐吉さんはにこにこ笑い、「誰も本気に聞いちゃ居ません。始めから嘘だと思・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 室へ帰る時、二階へ通う梯子段の下の土間を通ったら、鳥屋の中で鷄がカサコソとまだ寝付かれぬらしく、ククーと淋しげに鳴いていた。床の中へもぐり込んで聞くと、松の梢か垣根の竹か、長く鋭い叫び声を立てる。このような夜に沖で死んだ人々の魂が風に・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ やがて、三吉だけがさきに帰ろうとして、梯子段をおりかけると、おどり段まで、ふちなし眼鏡がでてきた。「――きみ、一度東京へ出てみたらいいな」 三吉はびっくりした。眠っているうち、彼は三吉のことを考えていたのだろうか?「行くん・・・ 徳永直 「白い道」
・・・山崎洋服店の裁縫師でもなく、天賞堂の店員でもないわれわれが、銀座界隈の鳥瞰図を楽もうとすれば、この天下堂の梯子段を上るのが一番軽便な手段である。茲まで高く上って見ると、東京の市街も下にいて見るほどに汚らしくはない。十月頃の晴れた空の下に一望・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。 自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの艶しい身の投げ態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ お松は夜着の中から滑り出て、鬆んだ細帯を締め直しながら、梯子段の方へ歩き出した。二階の上がり口は長方形の間の、お松やお金の寝ている方角と反対の方角に附いているので、二列に頭を衝き合せて寝ている大勢の間を、お松は通って行かなくてはならな・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫