・・・義姉はというと、彼女は口を極めて桂三郎を賞めていた。で、また彼女の称讃に値いするだけのいい素質を彼がもっていることも事実であった。 とにかく彼らは幸福であった。雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・家は軽快なる二階づくりで其の門墻も亦極めていかめしからざるところ、われわれの目には富商の隠宅か或は旗亭かとも思われた位で、今日の紳士が好んで築造する邸宅とは全く趣を異にしたものであった。 茅町の岸は本郷向ヶ岡の丘阜を背にし東に面して不忍・・・ 永井荷風 「上野」
・・・そういう時には尻尾を脚の間へ曲げこんで首を垂れて極めて小刻みに帰って行く。赤は又庭へ雀がおりても駈けて行く。庭の桐の木から落ちたササキリが其長い髭を徐ろに動かしてるのを見て、赤は独で勇み出して庭のうちに輪を描いて駈け歩いた。そうしては足で一・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず。かかる人を賢しといわば、高き台に一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴が・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
・・・そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 此一章は下女の取扱法を教えたるものにして、第一に彼等の言うことを軽々しく信じて姨の親しみを薄くする可らず、其極めて多言なる者は必ず家族親類風波の基なれば速に追出す可し、都て卑しき者を使うには我意に叶わぬことも少なからず、漫りに・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・……文壇の覇権手に唾して取るべしなぞと意気込んでね……いやはや、陋態を極めて居たんだ。 その中に、人生問題に就て大苦悶に陥った事がある。それは例の「正直」が段々崩されてゆくから起ったので先ず小説を書くことで「正直」が崩される、その他種々・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。 誰やらの書いた本に、「幸福なる夫婦は極めて稀なり」と云う文句がございました。作者の名をつい忘れましたが、きっと田舎にい・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・人の後に生れその御諭をうくる思ふ時赤心報国国汚す奴あらばと太刀抜て仇にもあらぬ壁に物いふ示人天皇は神にしますぞ天皇の勅としいはばかしこみまつれ 極めて安心に極めて平和なる曙覧も一たび国・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫