・・・所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。おらが家の花も咲いたる番茶かな 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。 芥川竜之介 「飯田蛇笏」
・・・我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。 人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。 ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・時しも、鬱金木綿が薄よごれて、しなびた包、おちへ来て一霜くらった、大角豆のようなのを嬉しそうに開けて、一粒々々、根附だ、玉だ、緒〆だと、むかしから伝われば、道楽でためた秘蔵の小まものを並べて楽しむ処へ――それ、しも手から、しゃっぽで、袴で、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾のないもんじゃあ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。 男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑さに蚕籠を洗うべく、かつて省作を・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
私にとっては文芸というものに二つの区別があると思う。即ち悶える文芸と、楽しむ文芸とがそれである。 吾々の此の日常生活というものに対して些の疑をも挾まず、有ゆる感覚、有ゆる思想を働かして自我の充実を求めて行く生活、そして何を見、何に・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ 地上に生れて来た上は、地上の美を心から楽しむことの出来るような生活を営まなければならない。また、そうした生活をすべく努力しなければならない。春になれば春を楽み夏になれば夏を楽しむことの出来るような生活が本当の生活であるのです。 自・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・また僕は君が一度こんなことを言ったのを覚えているが、そういう空想を楽しむ気持も今の君にはないのかい。君は言った。わずか数浬の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺とした無限感を起こしてしまうなんぞはコロンブス以・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・その音も善平の耳に障りて、笑ましき顔も少し打ち曇りしが、それはどんな人であっても探せばあらはきっと出る、長所を取り合ってお互いに面白く楽しむのが交際というものだ。お前はだんだん偏屈になるなア。そんな風で世間を押し通すことは出来ないぞ。とさす・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・しかし、それはシベリヤで楽しむ内地の匂いにすぎなかった。戦友は、這入ってきた看護長を見ると、いきなり、その慰問袋から興味をなげ棄てた。「看護長殿、福地、なんぼ恩給がつきます?」 栗本には思いがけないことだった。彼は開けさしの袋をベッ・・・ 黒島伝治 「氷河」
出典:青空文庫