・・・の部で鉄針とそれにつながる糸とが急速な振動をしているために一種の楽音が発生するが、巻き取るときはそうした振動が中止するので音のパウゼが来るわけである。要するにこの四拍子の、およそ考え得らるべき最も簡単なメロディーがこの糸車という「楽器」によ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・ 映画の一つのショットは音楽の一つの楽音に比べるよりもむしろ一つの旋律にたとえらるべきものである。それがモンタージュによって互いに対立させられる関係は一種の対位法的関係である。前のショットの中の各要素と次のショットの各要素との対位的結合・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・これは映写機のモーターの唸音の中から格好な楽音だけをわれわれの耳に特有な抽出作用によって選び出し、そうして視覚から来る連想の誘引に応じてスクリーンの上に投射したものらしい。 最近にはまた上記のものとは種類のちがった珍しい錯覚を経験した。・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・蓄音機のレコードの発する音響をすっかり殺してしまって、その上に耳を完全にふさいで、ただ指先の触感だけで楽音の振動をどれだけ判別できるかということを研究したものである。その結果によると、その振動が二つの音から成り立っている場合に、それが二つだ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・しかしあるいはこれは聴感に対する音楽に対立させうべき触感あるいは筋肉感に関する楽音のようなものではあるまいか。音自身よりはむしろ音から連想する触感に一種の快を経験するのではあるまいか。それともまたもっと純粋に心理的な理由によるものだろうか。・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・私は裏庭を左にした壁のオルガンの前に腰かけて、指の先の鍵盤から湧き上がる快い楽音の波に包まれて、しばらくは何事も思わなかった。 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔を撫でて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・そうすれば雑音の短い音波はかなり消却されるがそのかわり音が弱くなるのは免れ難いし、また同時に肝心の楽音の音色にもいくぶんかの変化を起こすのはやむを得ないようである。そのほかに驢馬の耳の形をしたラッパを使った人もあるが、どれだけ有効であるかよ・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・ 電車の走る音の中にも種々な楽音が含まれている事は少し注意して見れば分る。モーターの早い規律正しい廻転から起る音の中にはかなり純粋な楽音がいくつかある。しかし電車の中で歌いたくなる人はあまりなさそうである。たとえ取締規則がこれを許しても・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・そうして顔を洗うために鉢の水が動揺すると、この水の定常振動と同じ週期で一種の楽音を発することがしばしばある。それでよく気をつけて見ると、これは鉢の縁とコップとの摩擦によって起こる鉢の振動のためらしい事がわかった。宅の洗面台はきわめて粗末な普・・・ 寺田寅彦 「日常身辺の物理的諸問題」
・・・人は自然に同化し、自然は人間に消化され、人と自然が完全な全機的な有機体として生き動くときにおのずから発する楽音のようなものであると言ってもはなはだしい誇張ではあるまいと思われるのである。西洋人の詩にも漢詩にも、そうした傾向のものがいくらかは・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
出典:青空文庫