・・・ 建込んだ表通りの人家に遮ぎられて、すぐ真向に立っている彼の高い本願寺の屋根さえ、何処にあるのか分らぬような静なこの辺の裏通には、正しい人たちの決して案内知らぬ横町が幾筋もある。こういう横町の二階の欄干から、自分は或る雨上りの夏の夜に通・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・今度は円太郎馬車で新宅の横町の前まで来た。「どれが内ですか」と聞いた。向うに雑な煉瓦造りの長屋が四五軒並んでいる。前には何にもない。砂利を掘った大きな穴がある。東京の小石川辺の景色だ。長屋の端の一軒だけ塞がっていてあとはみんな貸家の札が張っ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、す・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・小さい、寂しい横町である。少数の職業組合が旧教の牧師の下に立って単調な生活をしていた昔をそのままに見せるこう云う町は、パリイにはこの辺を除けては残っていない。指定せられた十八番地の前に立って見れば、宛然たる田舎家である。この家なら、そっくり・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 狸横町の海棠は最う大抵散って居た。色の褪せたきたない花が少しばかり葉陰に見える。 仲道の庭桜はもし咲いて居るかも知れぬと期して居たが何処にもそんな花は見えぬ。かえってそのほとりの大木に栗の花のような花の咲いて居たのがはや夏めいて居・・・ 正岡子規 「車上の春光」
この第二巻には、わたしとしてほんとうに思いがけない作品がおさめられた。それは二百枚ばかりの小説「古き小画」が見つかったことである。 一九二二年の春のころ、わたしは青山の石屋の横丁をはいった横通りの竹垣のある平べったいト・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・一太の家は、千住から小菅の方へ行く街道沿いで、繩暖簾の飯屋の横丁を入った処にあった。その横丁は雨っぷりのとき、番傘を真直さしては入れない程狭かった。奥に、トタン屋根の長屋が五棟並んでいて一太のは三列目の一番端れであった。どの家だってごく狭い・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 停留場までの道を半分程歩いて来たとき、横町から小川という男が出た。同じ役所に勤めているので、三度に一度位は道連になる。「けさは少し早いと思って出たら、君に逢った」と、小川は云って、傘を傾けて、並んで歩き出した。「そうかね。」・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 表通は中くらいの横町で、向いの平家の低い窓が生垣の透間から見える。窓には竹簾が掛けてある。その中で糸を引いている音がぶうんぶうんとねむたそうに聞えている。 石田は座布団を敷居の上に敷いて、柱に靠り掛かって膝を立てて、ポッケットから・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があって、先は少しだらだら坂になっていた。その坂を一町ほどのぼりつめた右側が漱石山房であった。門をはいると右手に・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫