・・・ とちと粘って訛のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂を入らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦の背後へ、ぬっと、鼠の中折を目深に、領首を覗いて、橙色の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、「大福餅、暖い!」 ま・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ 欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。 橙色の罫のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めてい・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・夕ばえの空は橙色から緑に、山々の峰は紫から朱にぼかされて、この世とは思われない崇厳な美しさである。紅海は大陸の裂罅だとしいて思ってみても、眼前の大自然の美しさは増しても減りはしなかった。しかしそう思って連山をながめた時に「地球の大きさ」とい・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・森のはずれから近景へかけて石ころの多い小径がうねって出る処を橙色の服を着た豆大の人が長い棒を杖にし、前に五、六頭の牛羊を追うてトボトボ出て来る。近景には低い灌木がところどころ茂って中には箒のような枝に枯葉が僅かにくっ付いているのもある。あち・・・ 寺田寅彦 「森の絵」
・・・「広い海がほのぼのとあけて、……橙色の日が浪から出る」とウィリアムが云う。彼の眼は猶盾を見詰めている。彼の心には身も世も何もない。只盾がある。髪毛の末から、足の爪先に至るまで、五臓六腑を挙げ、耳目口鼻を挙げて悉く幻影の盾である。彼の総身・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ するとその橙色の女のばけものはやっと気がついたと見えて俄かに泣き顔をやめて云いました。「これはどうもとんだ失礼をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」「いいえ。どう致しまして。私は今度はじめてム・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ やがて、日がだんだん山に近くなって、天地が橙色に霞み山々の緑が薄い鳩羽色で包まれかけると、六は落日に体中照り出されながら、来たとは反対の側から山を下りる。 そして、菫が咲き、清水が湧き出す小溝には沢蟹の這いまわるあの新道を野道へ抜・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・薄明かりの坂路から怪物のように現われて来る逞しい牛の姿、前景に群がれる小さき雑草、頂上を黄橙色に照らされた土坡、――それらの形象を描くために用いた荒々しい筆使いと暗紫の強い色調とは、果たして「力強い」と呼ばるべきものだろうか。また自然への肉・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫