・・・それに、貉かも知れぬと答えたのは、全く娘の機転である。――恋は昔から、何度となく女にこう云う機転を教えた。 夜が明けると、母親は、この唄の声を聞いた話を近くにいた蓆織りの媼に話した。媼もまたこの唄の声を耳にした一人である。貉が唄を歌いま・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・ ああ居てくれれば可かった、と奴の名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。 十四 強盗に出逢ったような、居もせぬ奴を呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸は一倍高うなる。 女房は連りに心急い・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ ――覚えていますが、その時、ちゃら金が、ご新姐に、手づくりのお惣菜、麁末なもの、と重詰の豆府滓、……卯の花を煎ったのに、繊の生姜で小気転を利かせ、酢にしたしこいわしで気前を見せたのを一重。――きらずだ、繋ぐ、見得がいいぞ、吉左右! と・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・早瀬 早く行って来ないかよ。お蔦 あいよ。そうそう、鬱陶しいからって、貴方が脱いだ外套をここに置きますよ。夜露がかかる、着た方が可いわ。気転きかして奥と口。お蔦 (拍手天神様、天神様。早瀬 何だ、ぶしつけな。・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・ あの気転だから、話をしながら茶を拵える、用をやりながらも遠くから話しかける。「ねい伯父さん何か上げたくもあり、そばに居て話したくもありで、何だか自分が自分でないようだ、蕎麦饂飩でもねいし、鰌の卵とじ位ではと思っても、ほんに伯父さん・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ちょうど温かい心もちが無いのではありませんが、機転のきかない妻君が、たまたまの御客様に何か薦めたい献りたいと思っても、工合よく思い当るものが無いので、仕方なしに裏庭の圃のジャガイモを塩ゆでにして、そして御菓子にして出しました、といったような・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・商売柄だけに田舎者には相応に機転の利く女房は自分が水を汲んで頻りに謝罪しながら、片々の足袋を脱がして家へ連れ込んだ。太十がお石に馴染んだのは此夜からであった。そうして二三日帰らなかった。女の切な情というものを太十は盲女に知ったのである。目が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・体の健やかな共稼ぎの出来る能力のある女性や積極的に日々を展開してゆける機転と賢さと生活力を湛えた女性をこそ必要とするのだと、はっきり男として自身の感情の方向をつかんでいる若い人たちは何人あるだろうか。 時代が私たちに課していることはいろ・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
・・・ 女性のうちなる母性のこんこんとした泉に美があるなら、それは、次から次へと子を産み出してゆく豊饒な胎だけを生物的にあがめるばかりではなくて、母が、愛によってさとく雄々しく、建設の機転と創意にみちているからでなくてはならないだろう。 ・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
出典:青空文庫