・・・「もう八日経てば、大檀那様の御命日でございます。御命日に敵が打てますのも、何かの因縁でございましょう。」――喜三郎はこう云って、この喜ばしい話を終った。そんな心もちは甚太夫にもあった。二人はそれから行燈を囲んで、夜もすがら左近や加納親子の追・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・「旦那、お前さん手合は余り虫が宜過ぎまさあ。日頃は虫あつかいに、碌々食うものも食わせ無えで置いて、そんならって虫の様に立廻れば矢張り人間だと仰しゃる。己れっちらの境涯では、四辻に突っ立って、警部が来ると手を挙げたり、娘が通ると尻を横目で・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
一 襖を開けて、旅館の女中が、「旦那、」 と上調子の尻上りに云って、坐りもやらず莞爾と笑いかける。「用かい。」 とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しが・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・「や、これや旦那はえいことをいわっしゃった。おはまさんは何でも旦那に帯でも着物でもどしどし買ってもらうんだよ」 省作はただ笑う仲間にばかりなって一向に話はできない。満蔵はもう一俵の米を搗き上げてしまった。兄は四俵の俵をあみ上げる。省・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そうするともとからいたずらものなので奥様の手前もはばからないで旦那様にじょうだんしかけいつともなく我物にしてしまった。けれ共奥方は武士の娘なので世に例のある事だからと知らぬ振してすぎて居た。それだのに小吟はいいきになってやめないので家も乱れ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「もとの旦那に出来た娘なの」「いくつ?」「十二」「意気地なしのお前が子までおッつけられたんだろう?」「そうじゃアない、わ。青森の人で、手が切れてからも、一年に一度ぐらいは出て来て、子供の食い扶持ぐらいはよこす、わ。――そ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・儀御進物にはけしくらゐほどのいもあとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候処文政七申年はしか流行このかた御用重なる御重詰御折詰もふんだんに達磨の絵袋売切らし私念願かな町のお稲荷様の御利生にて御得意旦那のお子さまがた疱瘡はしかの軽々焼と御・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・毎月三日月様になりますと私のところへ参って「ドウゾ旦那さまお銭を六厘」という。「何に使うか」というと、黙っている。「何でもよいから」という。やると豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供える。後で聞いてみると「旦那さまのために三日月様に祈っ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・あとできけば、浜子はもと南地の芸者だったのを、父が受けだした、というより浜子の方で打ちこんで入れ揚げたあげく、旦那にあいそづかしをされたその足で押しかけ女房に来たのが四年前で、男の子も生れて、その時三つ、新次というその子は青ばなを二筋垂らし・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・お正さんは二十四でも未だ若い盛で御座いますが、旦那は五十幾歳とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」 大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫