・・・けれども指先に出して見ると、ほんとうの歯の欠けたのだった。自分は少し迷信的になった。しかし客とは煙草をのみのみ、売り物に出たとか噂のある抱一の三味線の話などをしていた。 そこへまた筋肉労働者と称する昨日の青年も面会に来た。青年は玄関に立・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時の・・・ 芥川竜之介 「羅生門」
・・・その生活といい、実行といい、それは学者や思想家には全く欠けたものであって、問題解決の当体たる自分たちのみが持っているのだと気づきはじめた。自分たちの現在目前の生活そのままが唯一の思想であるといえばいえるし、また唯一の力であるといえばいえると・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・といわねば満足されぬ心には徹底と統一が欠けている。大きくいえば、判断=実行=責任というその責任を回避する心から判断をごまかしておく状態である。趣味という語は、全人格の感情的傾向という意味でなければならぬのだが、おうおうにして、その判断をごま・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・最愛最惜の夫人の、消息の遅さを案じて、急心に草を攀じた欣七郎は、歓喜天の御堂より先に、たとえば孤屋の縁外の欠けた手水鉢に、ぐったりと頤をつけて、朽木の台にひざまずいて縋った、青ざめた幽霊を見た。 横ざまに、杖で、敲き払った。が、人気勢の・・・ 泉鏡花 「怨霊借用」
・・・ 欠けた瀬戸火鉢は一つある。けれども、煮ようたって醤油なんか思いもよらない。焼くのに、炭の粉もないんです。政治狂が便所わきの雨樋の朽ちた奴を……一雨ぐらいじゃ直ぐ乾く……握り壊して来る間に、お雪さんは、茸に敷いた山草を、あの小石の前へ挿・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・稲刈りは稲さえ思うだけ刈り上げさえすればよいわけだが、仕事の興味という点からいうと、二軒いっしょになって刈るというところに仕事以外の興味がなければならないのに、今度の稲刈りはどうもそれが欠けておった。清さんはさもつまらなそうに人について仕事・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・顔の厭に平べッたい、前歯の二、三本欠けた、ちょっと見ても、愛相が尽きる子だ。菊子が青森の人に生んで、妹にしてあると言ったのは、すなわち、これらしい。話しばかりに聴いて想像していたのと違って、僕が最初からこの子を見ていたなら、ひょッとすると、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ が、諸藩の勤番の田舎侍やお江戸見物の杢十田五作の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので、芝居や人情本ではこういう田五作や田舎侍は無粋な執深の嫌われ者となっている。維新の革命で江戸の洗練された文化は田舎侍の跋扈するままに荒され、江戸特有の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・月はすこし欠けていましたけれども、やはり流るるような青い青い光は、時計台を照らして、高い塔が夜の空にそびえているのを見ました。さよ子は例の窓のところにきて、石の上に立ってのぞきますと、へやのようすにすこしも変わりがなかったけれど、大きなテー・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫