・・・ 鷺玄庵、シテの出る前に、この話の必要上、一樹――本名、幹次郎さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も画工さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知ら・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ 四 渠は稲田雪次郎と言う――宿帳の上を更めて名を言った。画家である。いくたびも生死の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
一 木曾街道、奈良井の駅は、中央線起点、飯田町より一五八哩二、海抜三二〇〇尺、と言い出すより、膝栗毛を思う方が手っ取り早く行旅の情を催させる。 ここは弥次郎兵衛、喜多八が、とぼとぼと鳥居峠を越すと、日・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「こないだも大ざらいがあって、義太夫を語ったら、熊谷の次郎直実というのを熊谷の太郎と言うて笑われたんだ――あ、あれがうちの芸著です、寝坊の親玉」 と、そとを指さしたので、僕もその方に向いた。いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・何で忙がしいかと訊くと、或る科学上の問題で北尾次郎と論争しているんで、その下調べに骨が折れるといった。その頃の日本の雑誌は専門のものも目次ぐらいは一と通り目を通していたが、鴎外と北尾氏との論争はドノ雑誌でも見なかったので、ドコの雑誌で発表し・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
ある、うららかな日のことでありました。 二郎は、友だちもなく、ひとり往来を歩いていました。 この道を、おりおり、いろいろなふうをした旅人が通ります。 彼はさも珍しそうに、それらの人たちを見送ったのであります。 二郎は、・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・と、お姉さんが、いいました。「お母さん、すぐに、切っておくれよ。」と、太郎さんが、いいました。「果物がはいっているから、勇ちゃんは、たべていけないのですね。」と、二郎さんが、パイをながめながらいいました。 さっきから、やはりだま・・・ 小川未明 「お母さんはえらいな」
・・・歌舞伎座の裏手の自由軒の横に雁次郎横町という路地があります。なぜ雁次郎横町というのか判らないが、突当りに地蔵さんが祀ってあり、金ぷら屋や寿司屋など食物屋がごちゃごちゃとある中に、格子のはまった小さなしもた家――それが父の家でした。父はもう七・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・仕立物の賃仕事に追われていたことが悲しいまでにわかり、思いがけなく豹一は涙を落したが、なぜかその目のふちの黝さを見て、安二郎を恨む気持が出た。安二郎はもう五十になっていたが、醜く肥満して、ぎらぎら油ぎっていた。相変らず、蓄財に余念がなかった・・・ 織田作之助 「雨」
・・・「あれですかい、あれは関次郎というばかでごいす」「フーム、……そうか」 彼は何気ない風して言ったが、呼吸も詰るような気がされた。「なるほど俺もああかな、……なるほど俺と似ているわい」 彼はそこそこに屋根に下りて、書斎に引っこ・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫