・・・一人は主人の大森亀之助。一人は正午前から来ている客である。大森は机に向かって電報用紙に万年筆で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草盆には埃及煙草の吸いがらがくしゃくしゃに突きこ・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・ 二十七日正午、舟岩内を発し、午後五時寿都という港に着きぬ。此地はこのあたりにての泊舟の地なれど、地形妙ならず、市街も物淋しく見ゆ。また夜泊す。 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・彼女は娵や孫達と集っていて、一緒に正午近い時を送った。「おばあちゃん、地震?」 と誰かの口真似のように言って、お三輪の側へ来るのは年上の方の孫だ。五つばかりになる男の児だ。「坊やは何を言うんだねえ」 とお三輪は打ち消すように・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・×日正午すぎ×区×町×番地×商、何某さんは自宅六畳間で次男何某君の頭を薪割で一撃して殺害、自分はハサミで喉を突いたが死に切れず附近の医院に収容したが危篤、同家では最近二女某さんに養子を迎えたが、次男が唖の上に少し頭が悪いので娘可愛さから思い・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・ 正午に、おいで下さるように、という小坂氏のお言葉であった。大隅君には、他に友人も無いようだ。私が結納を、おとどけしなければなるまい。その前日、新宿の百貨店へ行って結納のおきまりの品々一式を買い求め、帰りに本屋へ立寄って礼法全書を覗・・・ 太宰治 「佳日」
・・・期日は、明後日正午まで。稿料一枚、二円五十銭。よきもの書け。ちかいうちに遊びに行く。材料あげるから、政治小説かいてみないか。君には、まだ無理かな? 東京日日新聞社政治部、小泉邦録。」「謹啓。一面識ナキ小生ヨリノ失礼ナル手紙御読了被下度候・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 宿に送りとどけられ、幸吉兄妹に蒲団までひいてもらったのだろう、私は翌る日の正午ちかくまで、投げ捨てられた鱈のように、だらしなく眠った。「郵便屋さんですよ。玄関まで。」宿の女中に、そう言われて起された。「書留ですか?」私は、少し・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるこ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・その時には正午過ぎの「太陽」の強い光がくまなく降りそそいでいた。例の屋根の上に例の仁丹の広告がすすけよごれて見すぼらしく立っていた。白日のもとに見るとあれはいかにも手持ちぶさたな間の抜けたものである。 あらゆる宣伝を手持ちぶさたにする「・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・ 二 玉虫 夏のある日の正午駕籠町から上野行の電車に乗った。上富士前の交叉点で乗込んだ人々の中に四十前後の色の黒い婦人が居た。自分の隣へ腰をかけると間もなく不思議な挙動をするのが自分の注意をひいた。ハンケチで首筋の・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
出典:青空文庫