・・・ しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし嗄・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 長老は大様に微笑しながら、まず僕に挨拶をし、静かに正面の祭壇を指さしました。「御案内と申しても、何もお役に立つことはできません。我々信徒の礼拝するのは正面の祭壇にある『生命の樹』です。『生命の樹』にはごらんのとおり、金と緑との果が・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・そしてできるなら、諸家にも、単なる私の言説に対する批評でなしに――もちろん批評にはいつでも批評家自身の立場が多少の程度において現われ出るものではあるが――この問題に対する自分自身の正面からの立場を見せていただきたいと思う。それを知りたいと望・・・ 有島武郎 「想片」
・・・ 本堂正面の階に、斜めに腰掛けて六部一人、頭より高く笈をさし置きて、寺より出せしなるべし。その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・橋と正面に向き合う処に、くるくると渦を巻いて、坊主め、色も濃く赫と赤らんで見えるまで、躍り上がる勢いで、むくむく浮き上がった。 ああ、人間に恐れをなして、其処から、川筋を乗って海へ落ち行くよ、と思う、と違う。 しばらく同じ処に影を練・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水に咽せて顔を正面に向けて進むことはできない。ようやく埒外に出れば、それからは流れに従って行くのであるが、先の日に石や土俵を積んで防禦した、その石や土俵が道中に散乱してあるから、水・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。「マア何という好い景色でしょう」 民子も・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・川の向う正面はちょうど北浜三丁目と二丁目の中ほどのあたりの、中華料理屋の裏側に当っていて、明けはなした地下室の料理場がほとんど川の水とすれすれでした。その料理場では鈍い電灯の光を浴びた裸かの料理人が影絵のようにうごめいていました。その上は客・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・向う正面の坂を、一頭だけ取り残されたように登って行く白地に紫の波型入りのハマザクラを見ると、寺田の表情はますます歪んで行った。出遅れた距離を詰めようともせず、馬群から離れて随いて行くのは、もう勝負を投げてしまったのだろうか。ハマザクラはもう・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫