・・・そういう時によく武蔵野名物のから風が吹くことがあってせっかく咲きかけた藤の花を吹きちぎり、ついでに柔らかい銀杏の若葉を吹きむしることがあるが、不連続線の狂風が雨を呼んで干からびたむせっぽい風が収まると共に、穏やかにしめやかな雨がおとずれて来・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・国木田独歩がその名篇『武蔵野』を著したのもたしか千駄ヶ谷に卜居された頃であったろう。共に明治三十年代のことで、人はまだ日露戦争を知らなかった時である。 コスモスの花が東京の都人に称美され初めたのはいつ頃よりの事か、わたくしはその年代を審・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ その日は雨降りだから、すいているだろうと思って昼間の武蔵野館へ行ってみたのであったが、一杯のいりであった。たくさんの女のひとが熱心にみている。ぴったりと吸いよせられて、その肩のあたりや横顔をぼんやり浮上らせている列にそって顔から顔へ視・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
これまで私たちは云いたいことを云えなかったし、聞きたい話もきかれなかった。この頃になって、ぼつりぼつりと印象の深い話が耳に入るようになって来た。東京の郊外に武蔵野の雑木林にかこまれた、一つの女子専門学校がある。英語を専門に・・・ 宮本百合子 「結集」
・・・けれども、よそに出て暮しているのではないから、例えば、大阪で生れて育った人が現在では東京暮しをしているとか、反対に東京生れの人が大阪にいて、武蔵野の景色を故郷として思いうかべる心持とは大変にちがう。 外国生活の間には、誰しも自分の生れた・・・ 宮本百合子 「故郷の話」
・・・から「武蔵野夫人」への大岡昇平についても考えられることではないだろうか。スタンダリアンであるこの作家の「私の処方箋」は、きょうのロマネスクをとなえる日本の作家が、ラディゲだのラファイエット夫人だの、その他の、下じきをもっていて、その上に処方・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
上 この武蔵野は時代物語ゆえ、まだ例はないが、その中の人物の言葉をば一種の体で書いた。この風の言葉は慶長ごろの俗語に足利ごろの俗語とを交ぜたものゆえ大概その時代には相応しているだろう。 ああ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫