・・・たとえば歯科医の看板にしても、それが我我の眼にはいるのは看板の存在そのものよりも、看板のあることを欲する心、――牽いては我々の歯痛ではないか? 勿論我我の歯痛などは世界の歴史には没交渉であろう。しかしこう云う自己欺瞞は民心を知りたがる政治家・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・揃った事は、婦人科、小児科、歯科もある。申しおくれました、作家、劇作家も勿論ある。そこで、この面々が、年齢の老若にかかわらず、東京ばかりではない。のみならず、ことさらに、江戸がるのを毛嫌いして「そうです。」「のむです。」を行る名士が少くない・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ なかなかどうして、歯科散が試験薬を用いて、立合の口中黄色い歯から拭取った口塩から、たちどころに、黴菌を躍らして見せるどころの比ではない。 よく売れるから、益々得意で、澄まし返って説明する。 が、夜がやや深く、人影の薄くなったこ・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・今度、当地へ来がけに、歯が疼んで、馴染の歯科医へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの麹町の大通りから三宅坂、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を真直に、目的の明石町までと・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・右隣は歯科医院であった。 その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するので・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・総入れ歯の準備として、生き残った若干の歯を一度に抜いてしまったそのあとで顔じゅうふくれ上がって幾日も呻吟をつづけたのだそうである。歯科医術のまだ幼稚な明治十年代のことであるからずいぶん乱暴な荒療治であったことと想像される。 自分も、親譲・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・仕事の性質上婦人が多いので、ここの衛生委員は特別に歯科の診療所を工場内に設けた。小ざっぱりとした白い壁の小部屋で、ピカピカ清潔な医療道具がガラス箱の内に揃っている。白い上っぱりを着た医者が一人の女の患者を扱っているところだった。「女はど・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
出典:青空文庫