・・・ 遠藤は婆さんの屍骸から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。「私が殺・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・とも子 だってそんな寝棺を持ち込む以上は……花田 死骸になってここにはいる奴はこれだ。(といいながら、壁にかけられた石膏こいつに絵の具を塗っておまえの選んだ男の代わりに入れればいいんだよ。たとえば俺がおまえに選ばれたとするね。ほん・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる死骸のみではないか。 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありては、つねに蛇蠍のごとく嫌われ、悪魔のごとく恐れらるる。これ他なし、・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・風のごとく駆下りた、ほとんど魚の死骸の鰭のあたりから、ずるずると石段を這返して、揃って、姫を空に仰いだ、一所の鎌首は、如意に似て、ずるずると尾が長い。 二階のその角座敷では、三人、顔を見合わせて、ただ呆れ果ててぞいたりける風情がある・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・殊に蜜柑と樽柿が好物で、見る間に皮や種子を山のように積上げ、「死骸を見るとさも沢山喰ったらしくて体裁が宜くない、」などと云い云い普通の人が一つ二つを喰う間に五つも六つもペロペロと平らげた。 が、贅沢は食物だけであって、衣服や道具には極め・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ この水ぶくれのした死骸は、川の上に浮いて、ふわりふわりと流れて、みんなの知らぬまに、海に入ってしまったのであります。不思議なことに、この死骸も、またほたるになったのです。 これが、海ぼたるでありました。 二人の兄弟は、海ぼたる・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・そりゃまあいいが、旅で死んだ日にゃ犬猫も同じで、死骸も分らなけりゃ骨も残らねえ――残しておいてもしようがねえからね。すると、まるで私というものは影も形もなしに、この永え間の娑婆からずッと消えたようになくなってしまうわけだ、そう思うと厭だね、・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・鼠の死骸はいつまでもジクジクしていた。近くの古池からはなにかいやな沼気が立ちのぼるかと思われた。一町先が晴れてもそこだけは降り、風は黒く渡り、板塀は崩れ、青いペンキが剥げちょろけになったその建物のなかで、人びとは古障子のようにひっそりと暮し・・・ 織田作之助 「道」
・・・はてな、此奴死骸かな。それとも負傷者かな? 何方でも関わん。おれは臥る…… いやいや如何考えてみても其様な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を逐払って此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせず篝・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・ そこは入り込んだ町で、昼間でも人通りは少なく、魚の腹綿や鼠の死骸は幾日も位置を動かなかった。両側の家々はなにか荒廃していた。自然力の風化して行くあとが見えた。紅殻が古びてい、荒壁の塀は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫