・・・ 薄髯の二重廻が殊勝らしく席を譲った。「どうもありがとう……。」 しかし腰をかけたのは母らしい半白の婆であった。若い女は丈伸をするほど手を延ばして吊革を握締める。その袖口からどうかすると脇の下まで見え透きそうになるのを、頻と気に・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・看護婦がまた殊勝な女で小さい声で一度か二度呼ばれると快よい優しい「はい」と云う受け答えをして、すぐ起きた。そうして患者のために何かしている様子であった。 ある日回診の番が隣へ廻ってきたとき、いつもよりはだいぶ手間がかかると思っていると、・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・「殊勝なお心掛けじゃ。それなればこそ、たとえ脚をば折られても、二度と父母の処へも戻ったのじゃ。なれども健かな二本の脚を、何面白いこともないに、捩って折って放すとは、何という浅間しい人間の心じゃ。」「放されましても二本の脚を折られてど・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・と言った人は、それでも、色々殊勝な心がけがあるらしいことよ。文学は文学であることを忘られない作家の一人であるらしくみえます。ユーゴーその他の作品はずっと昔に読んだけれど、今読めばまた今の判断があるでしょう。けれども、今の私は当分現代に近い小・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・そちが志は殊勝で、殿様のお許しが出たのは、この上もない誉れじゃ。もうそれでよい。どうぞ死ぬることだけは思い止まって、御当主にご奉公してくれい」と言った。 五助はどうしても聴かずに、五月七日にいつも牽いてお供をした犬を連れて、追廻田畑の高・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・三斎公その時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと仰せられ候て、助命遊ばされ候。伝兵衛はこの恩義を思候て、切腹いたし候。介錯は磯田十郎に候。久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城の時功ありて、新知百五十石賜わり候者に候。矢野又三郎・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟のある宿を借りて、ひょっと宿主に難儀をかけようかと、それが気がかりでございますが、わたくしはともかくも、子供らに温いお粥でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、そのご恩はのちの・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・お爺いさんのする事は至って殊勝なようであるが、女中達は一向敬服していなかった。そればかりではない。女中達はお爺いさんを、蔭で助兵衛爺さんと呼んでいた。これはお爺いさんが為めにする所あって布団をまくるのだと思って附けた渾名である。そしてそれが・・・ 森鴎外 「心中」
・・・唯彼猿はそのむかしを忘れずして、猶亜米利加の山に栖める妻の許へふみおくりしなどいと殊勝に見ゆる節もありしが、この男はおなじ郷の人をも夷の如くいいなして嘲るぞかたはら痛き。少女の挽物細工など籠に入れて売りに来るあり。このお辰まだ十二三なれば、・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・今でも私はその時の殊勝な態度を顧みて、満足に思っている。 義士等が吉良の首を取るまでには、長い長い時間が掛かった。この時間は私がまだ大学にいた時最も恐怖すべき高等数学の講義を聴いた時間よりも長かった。それを耐忍したのだから、私は自ら満足・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫