・・・ しかしまた自分の不幸なるコスモポリチズムは、自分をしてそのヴェランダの外なる植込の間から、水蒸気の多い暖な冬の夜などは、夜の水と夜の月島と夜の船の影とが殊更美しく見えるメトロポオル・ホテルの食堂をも忘れさせない。世界の如何なる片隅をも・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・彼が殊更に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴の音凉しき夏の夕よりも、虫の音冴ゆる夜長よりも、かえって底冷のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方近く、この一間の置炬燵に猫を膝にしながら、所在なげに生欠伸をかみしめる時であ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・紺と黒と柿色の配合が、全体に色のない場末の町とて殊更強く人目を牽く。自分は深川に名高い不動の社であると、直様思返してその方へ曲った。 細い溝にかかった石橋を前にして、「内陣、新吉原講」と金字で書いた鉄門をはいると、真直な敷石道の左右に並・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白お召の単衣も殊更袖の長いのに、宛然田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・又あいよめを親み睦敷すべし。殊更夫の兄嫂は厚敬ふべし。我昆姉と同じくすべし。 兄公女公に敬礼を尽して舅姑の感情を傷わず、と睦じくして夫の兄嫂に厚くするは、家族親類に交わるの義務にして左もある可きことなれども、夫の兄と嫂とは元来骨・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ポケットより新聞と老眼鏡とを取り出し殊更に顔をしかめつつこれを読む。しきりにゲップす。やがて睡る。曹長「大将の勲章は実に甘そうだなあ。」特務曹長「それは甘そうだ。」曹長「食べるというわけには行かないものでありますか。」特・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 今日は殊更しおれて何処か毛の濡れた仔猫のように見える彼女は、良人かられんに暇をやった一条を聞くと、情けない声で「困るわ、私」と云い出した。「どうして一言相談して下さらなかったの?」 彼は尤もな攻撃に当惑し、頻りに掌で髪・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・芥川龍之介は、それらのテーマを何故、殊更絵巻風の色調に「地獄変」として書かなければならず、侘びの加った晩年の馬琴の述懐として行燈とともに描き出されなければならなかったのだろうか。 芥川龍之介という作家は、都会人的な複雑な自身の環境から、・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・そして、本年の正月などは、殊更その感が深いようです。 今年はひろい規模で様々の祝典が催されたり、日本の歴史の上での記念すべき年として予定されているわけですが、日常生活が市民一般にあらわしている相貌に於ても、現実的にごく画期的なものをもっ・・・ 宮本百合子 「歳々是好年」
・・・ 雨あがりだから、おっとりした関西風の町並、名物の甃道は殊更歩くに快い。樟の若葉が丁度あざやかに市の山手一帯を包んで居る時候で、支那風の石橋を渡り、寂びた石段道を緑の裡へ登りつめてゆく心持。長崎独特の趣きがある。実際、長崎という市は、い・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
出典:青空文庫