・・・これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さしめる原因であった。オペラは欧洲の本土に在っては風雪最凛冽なる冬季にのみ興行せられるのが例である。それ故わたくしの西洋音楽を聴いて直に想い起すものは、深夜の燈火に・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・ お民が始て僕等の行馴れたカッフェーに給仕女の目見得に来たのは、去年の秋もまだ残暑のすっかりとは去りやらぬ頃であった。古くからいる女が僕等のテーブルにお民をつれてきて、何分宜しくと言って引合せたので、僕等は始めて其名を知ったわけである。・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・私の体、御心配をかけましたが、単純な疲労が重ってひどくこの残暑でやられたらしいのです。ひどく汗が出て出て、皆に、お前がたこんなに汗が出るかと訊いていたうちに疲れを重ねて居たのだったらしい様子です。御飯もきょうからたべます。背中の痛いのもすこ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 引越しの日は、晴れて暑い残暑の太陽が、広い駒込の通りを、かっと照して居た。 午前中本箱や夜具、トランク類を、石井の荷物自動車にのせ、英男が面白がって後につかまって送って行った。大工、善さん、おまつ等がAに手伝い、略、片がついたと思・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・翌日は蒸し暑い残暑だ。樹がロンドンじゅうで黄葉した。 空は灰色である。雨上りのテームズ河に潮がさし、汽船が黒、赤、白。低い黒煙とともに流れる。架橋工事の板囲から空へ突出た起重機の鉄の腕が遠く聳えるウェストミンスタア寺院の塔の前で曲ってい・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫