・・・ そこで一緒に小用を足して、廊下づたいに母屋の方へまわって来ると、どこかで、ひそひそ話し声がする。長い廊下の一方は硝子障子で、庭の刀柏や高野槙につもった雪がうす青く暮れた間から、暗い大川の流れをへだてて、対岸のともしびが黄いろく点々と数・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・「安心なさい。母屋は焼けたけれども離れだけは残って、おとうさんもおかあさんもみんなけがはなかったから……そのうちに連れて帰ってあげるよ。けさの寒さは格別だ。この一面の霜はどうだ」 といいながら、おじさんは井戸ばたに立って、あたりをな・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・私たち二人は、その晩、長野の町の一大構の旅館の奥の、母屋から板廊下を遠く隔てた離座敷らしい十畳の広間に泊った。 はじめ、停車場から俥を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」 で、上靴を穿かせて、つ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのであるが、眩いばかり西日が射すので、頭痛持なれば眉を顰め、水底へ深く入った鯉とともにその毛布の席を去って、間に土間一ツ隔てたそれなる母屋の中二階に引越したのであった。 ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・中洲の島で、納涼ながら酒宴をする時、母屋から料理を運ぶ通船である。 玉野さえ興に乗ったらしく、「お嬢様、船を少し廻しますわ。」「だって、こんな池で助船でも呼んでみたが可い、飛んだお笑い草で末代までの恥辱じゃあないか、あれお止しよ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧く。母屋の方では咳一つするものもない。世間一体も寂然と眠に入った。予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足ら・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・南の裏庭広く、物置きや板倉が縦に母屋に続いて、短冊形に長めな地なりだ。裏の行きとまりに低い珊瑚樹の生垣、中ほどに形ばかりの枝折戸、枝折戸の外は三尺ばかりの流れに一枚板の小橋を渡して広い田圃を見晴らすのである。左右の隣家は椎森の中に萱屋根が見・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・そして一方の間が、母屋で、また一方が離座敷になっていて、それが私の書斎兼寝室であったのだ。或夜のこと、それは冬だったが、当時私の習慣で、仮令見ても見ないでも、必ず枕許に五六冊の本を置かなければ寝られないので、その晩も例の如くして、最早大分夜・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・十年もそれが続いたから、母屋の嫂もさすがに、こんなことでこの先どないなるこっちゃら、近所の体裁も悪いし、それに夫婦喧嘩する家は金はたまらんいうさかいと心配して、ある日、御寮人さんを呼寄せて、いろいろ言い聴かせた末、黒焼でも買いイなと、二十円・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 吉田はそう言ったなり弟がその話をこの部屋ではしないで送って行った母と母屋の方でしたということを考えていたが、やはり弟の眼にはこの自分がそんな話もできない病人に見えたかと思うと、「そうかなあ」というふうにも考えて、「なんであれもそん・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫