・・・象徴と譬喩と、どうちがうか、それにさえきょとんとしている人がたまにはあるのだから、言うのに、ほんとに骨が折れる。 この認識論は、多くの詩人を、よろこばせるにちがいない。だいいち、めんどうくさくなくていい。理性や知性の純粋性など、とうに見・・・ 太宰治 「多頭蛇哲学」
・・・ こんな譬喩を用いて、私はごまかそうとしているのでは決してない。その文字を具体的に説明して聞かせるのは、むずかしいのみならず、危険なのだ。まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、呆れるばかりに図々しい面の・・・ 太宰治 「父」
・・・それにはなにも意味がないのだ。比喩でもないのだ。ある武士的な文豪は、台所の庖丁でスパリと林檎を割って、そうして、得意のようである。はなはだしきは、鉈でもって林檎を一刀両断、これを見よ、亀井などという仁は感涙にむせぶ。 どだい、教養という・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・三度の飯よりも、というのは、私にとって、あながち比喩ではない。事実、私は、いい作品ならば三度の飯を一度にしても、それに読みふけり、敢て苦痛を感じない。私は、そんな馬鹿である。そう自分に見極めがついたときに、私は世評というものを再び大事にしよ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・「併行モンタージュ」「比喩モンタージュ」等種々の型式が区別されるようになってからはこれらモンタージュの理論的の討議がいろいろと行なわれるようになって来た。たとえばエイゼンシュテインはその「映画の弁証法」において、プドーフキンらのモンタージュ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・「対照」「譬喩」「平行」「同時」等いろいろのモンタージュ手法に類するものを拾い出すことも可能であろうと思われる。 映画における字幕サブタイトルに相当するものすら、ある絵巻物には書き込まれてあるのも興味あることである。 絵巻物の一画面・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・さもしい譬喩ではあるが、言わばビフテキのあとで良いサラダを食ったような感じがある。あるいはまたドイツの近代画家の絵とフランス近代画家の絵との二つの展覧会を続けて見たという感じもする。これは当然なことであろうが、しかしこれほどまでに二つのちが・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・というのはもちろん譬喩的の言葉であるには相違ないが、しかしその言った先生の意味が正確にどういう内容のものであったか、当人に聞いてみなければ結局ほんとうのことはわからない。ただその先生の平生の勉強ぶりから推して考えてみると、映画の享楽の影響か・・・ 寺田寅彦 「映画と生理」
・・・ おとぎ話というものは、だいたいにおいて人間世界の事実とその方則とを特殊な譬喩の形式によって表現したものである。さるやかにが出て来たりまた栗のいがや搗臼のようなものまでも出て来るが、それらは実はみんなやはりそういう仮面をかぶった人間の役・・・ 寺田寅彦 「さるかに合戦と桃太郎」
・・・ 余は最初より大人と小児の譬喩を用いて写生文家の立場を説明した。しかしこれは単に彼らの態度をもっともよく云いあらわすための言語である。けっして彼らの人生観の高下を示すものではない。大人だからえらい。えらい見方をして人事に対するのが写生文・・・ 夏目漱石 「写生文」
出典:青空文庫