・・・そこへ庭の葉桜の枝から毛虫が一匹転げ落ちました。毛虫は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思うと、二三度体をうねらせたぎり、すぐにぐったり死んでしまいました。それは実に呆っ気ない死です。同時にまた実に世話の無い死です。――「フライ鍋・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・彼はそこを歩きながら、径へさし出た薔薇の枝に毛虫を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這っているのがあった。毛虫は互に頷き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした。 第一の毛虫 この教官はいつ蝶・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 悪むものは毛虫、と高らかに読上げよう、という事になる。 箇条の中に、最好、としたのがあり。「この最好というのは。」「当人が何より、いい事、嬉しい事、好な事を引くるめてちょっと金麩羅にして頬張るんだ。」 その標目の下へ、・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ そこで、踞んで、毛虫を踏潰したような爪さきへ近く、切れて落ちた、むすびめの節立った荒縄を手繰棄てに背後へ刎出しながら、きょろきょろと樹の空を見廻した。 妙なもので、下木戸の日傭取たちも、申合せたように、揃って、踞んで、空を見る目が・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 彼の顔はふと毛虫を噛んだようになった。「あたし恥かしくて入山さんに直接言えないの。あなたから入山さんに言って下さらない?」「何をや!」「あたしのこと」 幾子は美しい横顔にぱっと花火を揚げた。「じゃ、君は入山が……」・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・この町で自転車に乗れるたった一人の娘である一枝の自転車のうしろに乗って遠乗りに行っていたのだと判ると、照井は毛虫を噛んだような顔で、「女だてらに自転車に乗るなんてけしからん。女は男の真似はよした方がいい」「だって、今は女だって男の方・・・ 織田作之助 「電報」
・・・ 初夏からかけて、よく家の中へ蜥蜴やら異様な毛虫やらがはいってきた。彼はそうしたものを見るにつけ、それが継母の呪いの使者ではないかという気がされて神経を悩ましたが、細君に言わせると彼こそは、継母にとっては、彼女らの生活を狙うより度しがた・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 社会主義と云えば、彼等は、毛虫のように思っている。 だが、彼等は、その毛虫の嫌う、社会主義によらなければ、永久の貧乏から免れないのだ。 それをどうして、百姓に了解させるか。 それから、百姓の中には、いまだに、自分が農民であ・・・ 黒島伝治 「選挙漫談」
・・・私の歩いている道に、少しでも、うるさい毛虫が這い寄ったら、私はそれを杖でちょいと除去するのが当然の事だ。私は若くて美しい。いや美しくはないけれど、でも、ひとりで生き抜こうとしている若い女性は、あんな下らない芸術家に恋々とぶら下り、私に半狂乱・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・明瞭に申しますれば、私は、貴方も、貴方の小説も、共に好みませぬ。毛虫のついた青葉のしたをくぐり抜ける気持ちでございます。一刻も早く、さよなら。太宰治先生、平河多喜。知らないお人へ、こっそり手紙かくこと、きっと、生涯にいちどのことでございまし・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫