・・・ ただ二人、閨の上に相対し、新婦は屹と身体を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面を瞻りて、打解けたる状毫もなく、はた恥らえる風情も無かりき。 尉官は腕を拱きて、こもまた和ぎたる体あらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ものからも度々噂を聞いて、Yに対する沼南の情誼に感奮した最初の推服を次第に減じたが、沼南の百の欠点を知っても自分の顔へ泥を塗った門生の罪過を憎む代りに憐んで生涯面倒を見てやった沼南の美徳に対する感嘆は毫も減ずるものではない。が、有体にいうと・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・筆力が雄健で毫も窘渋の痕が見えないのは右眼の失明が何ら累をなさなかったのであろう。 馬琴は若い時、医を志したので多少は医者の心得もあったらしい。医者の不養生というほどでもなかったろうが、平生頑健な上に右眼を失ってもさして不自由しなかった・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 観行院様は非常に厳格で、非常に規則立った、非常に潔癖な、義務は必らず果すというような方でしたから、種善院様其他の墓参等は毫も御怠りなさること無く、また仏法を御信心でしたから、開帳などのある時は御出かけになり、柴又の帝釈あたりなどへも折・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 両手で頬杖しながら匍匐臥にまだ臥たる主人、懶惰にも眼ばかり動かして一眼見しが、身体はなお毫も動かさず、「日瓢さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。「・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・其売れる売れないとは毫も文士として先生の偉大を損するに足らぬのである。 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・且つまた第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的の場合においても地震の突発する「時刻」を予報する事はかなり困難なるべし。何となれば、この場合は前に述べし過飽和溶液の・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・それで一見したところでは毫もこの規約に牴触しない――少なくも論理的には牴触しないような立派な付け句であっても、心理的科学者の目から見ると明らかに打ち越しの深い影響を受けたと、少なくも疑われるものがあったとしてもなんの不思議はないわけである。・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・軍人か土方の親方ならばそれでも差支はなかろうが、いやしくも美と調和を口にする画家文士にして、かくの如き粗暴なる生活をなしつつ、毫も己れの芸術的良心に恥る事なきは、実にや怪しともまた怪しき限りである。さればこれらの心なき芸術家によりて新に興さ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・事をなすに当って設備の道を講ずるは毫も怪しむに当らない。或人の話に現時操觚を業となすものにして、その草稿に日本紙を用うるは生田葵山子とわたしとの二人のみだという。亡友唖々子もまたかつて万年筆を手にしたことがなかった。 千朶山房の草稿もそ・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫