・・・ 僕の返事はM子さんには気乗りのしないように聞えたのでしょう。M子さんは幾分か拗ねたようにこう言って手すりを離れました。「じゃまた後ほど。」 M子さんの帰って行った後、僕はまた木枕をしながら、「大久保武蔵鐙」を読みつづけました。・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・――しかしそれは必ずしも気乗りのしないと云う訣ではなかった。わたしはいつも彼女の中に何か荒あらしい表現を求めているものを感じていた。が、この何かを表現することはわたしの力量には及ばなかった。のみならず表現することを避けたい気もちも動いていた・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・つまるところ省作の頭には、おとよの事が深く深く染みこんでいるから、わけもなく深田に気乗りがしない。それにこの頃おとよと隣との関係も話のきまりが着いて、いよいよおとよも他に関係のない人となってみると、省作はなにもかにもばからしくなって、俄かに・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 久助爺はけろりとした顔つきでこう繰返すので、耕吉は気乗りはしなかったが、結局これに極めるほかなかった。…… 月々十円ばかしの金が、借金の利息やら老父の飲代やらとして、惣治から送られていたのであった。それを老父は耕吉に横取りされたと・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・田口は気乗りのしない返事をした。「それで悶着がおこってきたんだ。」「だって、あいつら、偽札を使ってたんじゃないか。」 田口は、メリケン兵を悪く云うのには賛成しないらしく、鼻から眉の間に皺をよせ、不自然な苦い笑いをした。栗本は、将校に・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・じいさんは一向気乗りがしなかった。「草花を植えたって、つまりは土を遊ばすようなもんじゃ。」 彼は腰を折られて土いじりもしなくなった。それでも汚穢屋が来ると、「こっちの者は自分のしたチョウズまで銭を出して汲んで貰うんじゃ。……勿体・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ 熊吉は犬の話にも気乗りがしないで、他に話題をかえようとした。弟はこの養生園の生活のことで、おげんの方で気乗りのしないようなことばかり話したがった。でもおげんは弟を前に置いて、対い合っているだけでも楽みに思った。 やがて熊吉はこの養・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そんなに気乗りがしないのなら、なぜ、はるばる北京からやって来たのだ、と開き直って聞き糺したかったが、私も意気地の無い男である。ぎりぎりのところまでは、気まずい衝突を避けるのである。「立派な家庭だぜ。」私には、そう言うのが精一ぱいの事であ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・このへん芭蕉も、凡兆にやられて、ちょっと厭気がさして来たのか、どうも気乗りがしないようだ。芭蕉は連句に於いて、わがままをする事がしばしばある。まるで、投げてしまう事がある。浮かぬ気持になるのであろう。それも知らずに、ただもう面白がって下手な・・・ 太宰治 「天狗」
・・・ 私が気乗りのしない生返事をしていたのだが、佐野君はそれにはお構いなしに、かれの見つけて来たという、その、いいひとに就いて澱みなく語った。割に嘘の無い、素直な語りかただったので、私も、おしまいまで、そんなにいらいらせずに聞く事が出来た。・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
出典:青空文庫