・・・それは愛と美との要求が高まって相手が欲しくてたまらなくなるのだが、そんなとき気違いじみたことを考えるものだ。私は上野公園で音楽学校の女生徒をいちいち後をつけて、「僕を愛してくれますか」ときこうかと真面目に思ったことがある。そんなときは一番危・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 彼等は、しばらく、気狂いのようにはねる豚を見入っていた。 後藤は、も一発、射撃した。が、今度は動く豚に、ねらいは外れた。豚は、一としきり一層はげしく、必死にはねた。後藤はまた射撃した。が、弾丸はまた外れた。「これが、人間だった・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・尻を殴られた豚は悲鳴を上げ、野良を気狂いのように跳ねまわった。 二人は、初めのうちは、豚を小屋に追いかえそうと努めているようだった。しかし豚は棒を持った男が近づいて来ると、それまでおとなしくしていたやつまでが、急に頭を無器用に振ってはね・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 伍長は嬉しげに頓狂に笑った。「何がおかしいんだ! 気狂い!」 やかましく騒ぐ音が廊下にして、もう血のしみ通った三角巾で思い/\にやられた箇所を不細工に引っくゝった者が這入ってきた。どの顔も蒼く憔悴していた。 脚や内臓をやられて・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・警察では「又、気狂いババが来た」といって取り合わなかった。それでもお母アは平気だった。――あまりやかましいので、一度特高室で進と面会をさしてやった。息子が係りの刑事に連れられて、入ってきたのを見るや否や、いきなり大声で「こン畜生! この親不・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・「熱」 とおさだは口走ったが、その時おさだの眼は眼面におげんの方を射った。「気違いめ」 とその眼が非常に驚いたように物を言った。おさだは悲鳴を揚げないばかりにして自分の母親の方へ飛んで行った。何事かと部屋を出て見る直次の声も・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ と私は笑いながら、そう言いますと、「強盗に申し上げたらいいさ、あたしの亭主は気違いですよ、って。ピストル強盗も、気違いには、かなわないだろう。」 旅に反対する理由もありませんでしたので、私は夫のよそゆきの麻の夏服を押入から取り・・・ 太宰治 「おさん」
・・・『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院させた。高橋は静かに、謂わば、そろそろと、狂っていったのである。味わいの深い狂いかたであると思惟・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・たったいま迄、あの御立派な先生の前で、ぺこぺこしていらした癖に、もうすぐ、そんな陰口をたたくなんて、あなたは、気違いです。あの時から、私は、あなたと、おわかれしようと思いました。この上、怺えて居る事が出来ませんでした。あなたは、きっと、間違・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・それだから、していることが新米のファンの目には気違いとしか思われない。ちょん髷をつけたわれらの祖父母曾祖父母とはどうしても思われない。第二には群衆の使い方が拙である。おおぜいの登場者の配置に遠近のパースペクチーヴがなく、粗密のリズムがないか・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫