・・・新聞紙は諸方面の水害と今後の警戒すべきを特報したけれど、天気になったという事が、非常にわれらを気強く思わせる。よし河の水が増して来たところで、どうにか凌ぎのつかぬ事は無かろうなどと考えつつ、懊悩の頭も大いに軽くなった。 平和に渇した頭は・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・の年に偶然水害があった場合に、それから十一年後の「水の弟」の年に同じような水害の起こる確率が相当多いという事もあるかもしれない。ある辰年の冬ある地方がひどく乾燥でそのために大火が多かったとして、次の辰年にも同様な乾燥期が来るということには、・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 凶作のみならず水害風害あるいは地震や火事の災害を根本的に除くためには、やはり同様な恒久的施設が必要である。健忘症の政治家や気まぐれな学界元老などの手に任せておくにはあまりに大切な仕事である。 こういう見地から見て現在一番信頼の出来・・・ 寺田寅彦 「新春偶語」
・・・とあって水害もひどかったが風も相当強かったらしい。この災害のあとで、「班幣畿内諸神、祈止風雨」あるいは「向柏原山陵、申謝風水之ふうすいのわざわいをしんしゃせしむ」といったようなその時代としては適当な防止策が行われ、また最も甚だしく風水害を被・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・あの恐ろしい函館の大火や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに九月二十一日の近畿地方大風水害が突発して、その損害は容易に評価のできないほど甚大なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・舷のすれあう音ようやく止んで船は中流に出でたり。水害の名残棒堤にしるく砂利に埋るゝ蘆もあわれなり。左側の水楼に坐して此方を見る老人のあればきっと中風よとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。新地の絃歌聞えぬが嬉しくて丸山台まで行けば小蒸汽一艘・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・明治四十三年八月の水害と、翌年四月の大火とは遊里とその周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷に化せしむる階梯をつくった。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹疇すべきものは全くその跡を断つに至った。 ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水害を蒙ってから今は遂に一株をも存せぬようになった。水害の前の年、園中には尚数株の梅の残っていた頃である。花候の一日わたく・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳にしない。 大正三年秋の彼岸に、わたくしは久しく廃していた六阿弥陀・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・実例としては明治四十三年八月に起った水害の後、東京の市民は幾十年を過ぎた今日に至るまで、一度も隅田川の水が上野下谷の町々まで汎濫して来たような異変を知らない。その代り河水はいつも濁って澄むことなく、時には臭気を放つことさえあるようになったの・・・ 永井荷風 「水のながれ」
出典:青空文庫