・・・ 工場 黄色い硫化水素の煙が霧のようにもやもやしている。その中に職工の姿が黒く見える。すすびたシャツの胸のはだけたのや、しみだらけの手ぐいで頬かぶりをしたのや、中には裸体で濡菰を袈裟のように肩からかけたのが、反射炉の・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・――また彼は水素を充した石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。 青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯の心の燠にも、やがてその火は燃えうつった・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・少年時代に上記のごときおとぎ文学や小説戯曲に読みふけっているかたわらで、昆虫の標本を集めたり植物しょくぶつさくようを作ったり、ビールびんで水素を発生させ「歌う炎」を作ろうとして誤って爆発させたり、幻燈器械や電池を作りそこなったりしていたので・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・この減摩油の効力を規定する因子としての oiliness は、ある学者の説では炭水素連鎖の屈撓性、あるいは連鎖が界面に横臥しうる性質と関連しているとのことであるが、現在の場合でも連鎖が屈伸自在であればあるほど、金属の molecular な・・・ 寺田寅彦 「鐘に釁る」
・・・よくよく読んでみるとなるほど重い水素Dからできた水のことと了解されるが、ちょっと読んだくらいでは実に不思議な別物のような感じを起こさせるという書きぶりであった。ゆがんだ鏡に映った自分の顔をはじめは妙な顔だがなんだか見たような顔だと思って熟視・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・のみならず、焼かれた皮膚の局部では蛋白質が分解して血液の水素イオン濃度が変わったり、周囲に対する電位が変わったり、ともかくもその付近の細胞にとっては重大な事件が起こる。それが一つの有機体であるところの身体の全部にたとえ微少でもなんらかの影響・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 電子が一定量の陰電気を帯びている事、その質量が水素原子の質量のおよそ千八百分の一に当る事も種々の方面から推定される。かくのごとき電子の性質が次第に闡明され、これが原子を構成する模様が明らかになる時が来ても、電子その物は何物ぞという疑問・・・ 寺田寅彦 「物質とエネルギー」
長い管の中へ、水素と酸素とを適当な割合に混合したものを入れておく、そうしてその管の一端に近いところで、小さな電気の火花を瓦斯の中で飛ばせる、するとその火花のところで始まった燃焼が、次へ次へと伝播して行く、伝播の速度が急激に・・・ 寺田寅彦 「流言蜚語」
・・・泰山もカメラの裏に収まり、水素も冷ゆれば液となる。終生の情けを、分と縮め、懸命の甘きを点と凝らし得るなら――然しそれが普通の人に出来る事だろうか? ――この猛烈な経験を嘗め得たものは古往今来ウィリアム一人である。・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
出典:青空文庫