・・・自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・』三浦はしばらくの間黙って、もう夕暮の光が漂っている大川の水面をじっと眺めていましたが、やがて『どうだろう。その中に一つ釣にでも出かけて見ては。』と、何の取つきもない事を云い出しました。が、私は何よりもあの細君の従弟から、話題の離れるのが嬉・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・わらくずやペンキ塗りの木の片が黄緑色に濁った水面を、一面におおっている。どうも、昔、森さんの「桟橋」とかいうもので読んだほど、小説らしくもなんともない。 麦わら帽子をかぶって、茶の背広を着た君は、扇を持って、こっちをながめていた。それも・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・ 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次第に近くと三人の婦人であった。 やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯も広く屈むる中を・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 船は水面を横に波状動を起して、急に烈しく揺れた。 読経をはたと留め、「やあ、やあ、かしが、」と呟きざま艫を左へ漕ぎ開くと、二条糸を引いて斜に描かれたのは電の裾に似たる綾である。 七兵衛は腰を撓めて、突立って、逸疾く一間ばか・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・その掛茶屋は、松と薄で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀になっていて、緋鯉の影、真鯉の姿も小波の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋辷るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのである・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・重みのあるような、ねばりのあるような黒ずんだ水面に舟足をえがいて、舟は広みへでた。キィーキィーと櫓の音がする。 ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつにおもしろい。黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな赤松が四、五本森をなして、黄・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・全く日は暮れて僅かに水面の白いのが見えるばかりである。鉄橋の下は意外に深く、ほとんど胸につく深さで、奔流しぶきを飛ばし、少しの間流れに遡って進めば、牛はあわて狂うて先に出ようとする。自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・そして、お母さんにつれられて、さざなみの立つ、河の水面を、あちら、こちらと泳ぎまわったのでありました。「これからは、一日ましに、水の中も、暖かに明るくなってきます。そして、昼間は、太陽が、河一面に、火を点したように、明るく照らすでしょう・・・ 小川未明 「魚と白鳥」
・・・もやい綱が船の寝息のようにきしり、それを眠りつかせるように、静かな波のぽちゃぽちゃと舷側を叩く音が、暗い水面にきこえていた。「××さんはいないかよう!」 静かな空気を破って媚めいた女の声が先ほどから岸で呼んでいた。ぼんやりした燈りを・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫