・・・その拍子に障子の外の竪川へ、誰とも知れず身を投げた、けたたましい水音が、宵闇を破って聞えたそうです。これに荒胆を挫がれた新蔵は、もう五分とその場に居たたまれず、捨台辞を残すのもそこそこで、泣いているお敏さえ忘れたように、蹌踉とお島婆さんの家・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに鰭が鳴った。「憂慮をさっしゃるな。割いて爺の口に啖おうではない。――これは稲荷殿へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵から潜り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗くと、三ツの水道口、残らず三条の水が一齊にざっと灌いで、徒らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・私の期待はその水音だった。 どうしたわけで私の心がそんなものに惹きつけられるのか。心がわけても静かだったある日、それを聞き澄ましていた私の耳がふとそのなかに不思議な魅惑がこもっているのを知ったのである。その後追いおいに気づいていったこと・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・舳軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁く。人の眠催す様なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。 家に・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉みあって、・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・という歌の声は、笛吹川の水音にも紛れずに聞えた。 それから源三はいよいよ分り難い山また山の中に入って行ったが、さすがは山里で人となっただけにどうやらこうやら「勘」を付けて上って、とうとう雁坂峠の絶頂へ出て、そして遥に遠く武蔵一国が我が脚・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、橋立川と呼ぶものなるべし、水音の涼しげに響くを聞く。それより右に打ち開けたるところを望みつつ、左の山の腰を繞りて岨道を上り行くに、形おかしき鼠色の巌の峙てるあり。おもしろきさまの巌よと心留まり・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 夜に入って雨がまた強くなって梓川の水音も耳立って強くなった。突然強風が吹起こって家を揺るがし雨戸を震わすかと思うと、それが急にまるで嘘をいったように止んでただ沛然たる雨声が耳に沁みる。また五分くらいすると不意に思い出したように一陣の風・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・しかし「古池に蛙が飛び込んで水音がした」がなぜ散文で、「古池や蛙飛び込む水の音」がなぜ詩であるか。それは無定形と定形との相違である。しからば前者の五、九、七、を一つの異なる定型としてはなぜいけないか。この疑問に答えるには日本における五七調の・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
出典:青空文庫