・・・そこで敵打の一行はすぐに伊予船の便を求めて、寛文七年の夏の最中、恙なく松山の城下へはいった。 松山に渡った一行は、毎日編笠を深くして、敵の行方を探して歩いた。しかし兵衛も用心が厳しいと見えて、容易に在処を露さなかった。一度左近が兵衛らし・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そして鉢巻の下ににじんだ汗を袖口で拭って、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度横面をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらりと小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ある年の冬番人を置いてない明別荘の石段の上の方に居処を占めて、何の報酬も求めないで、番をして居た。夜になると街道に出て声の嗄れるまで吠えた。さて草臥れば、別荘の側へ帰って独で呟くような声を出して居た。 冬の夜は永い。明別荘の黒い窓はさび・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 思想と文学との両分野に跨って起った著明な新らしい運動の声は、食を求めて北へ北へと走っていく私の耳にも響かずにはいなかった。空想文学に対する倦厭の情と、実生活から獲た多少の経験とは、やがて私しにもその新らしい運動の精神を享入れることを得・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・本屋じゃ幾干に買うか知れないけれど、差当り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処にあれば可い訳だ、と先ず言った訳だ。先方の買直がぎりぎりの処なら買戻すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね。何しろ、ここは一ツ、私に立替えさ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・同業者の幾人が同じ目的をもって多くの材料を求め走ったと聞いて、自分は更に恐怖心を高めた。 五寸角の土台数十丁一寸厚みの松板数十枚は時を移さず、牛舎に運ばれた。もちろん大工を呼ぶ暇は無い。三人の男共を指揮して、数時間豪雨の音も忘れるまで活・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・一体女と云うものは一生たよるべき男は一人ほかないはずだのに其の自分の身持がわるいので出されて又、後夫を求める様になっては女も終である。人と云う人の娘は第一考えなければならない事である。一度縁を結んで再び里にかえるのは女の不幸としてこの上ない・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・心易いものと心易いものが、お互いに死出の友を求めて組みし合い、抱き合うばかりにして突進した。今から思て見ると、よく、まア、あないな勇気が出たことや。後について来ると思たものが足音を絶つ、並んどったものが見えん様になる、前に進むものが倒れてし・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・それにもかかわらず容易に揮毫の求めに応じなかった。殊に短冊へ書くのが大嫌いで、日夕親炙したものの求めにさえ短冊の揮毫は固く拒絶した。何でも短冊は僅か五、六枚ぐらいしか書かなかったろうという評判で、短冊蒐集家の中には鴎外の短冊を懸賞したものも・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 彼は、それからというものは毎日、あてもなく、あちらの町こちらの町とさまよって、職を求めて歩いていました。 空の色のうす紅い、晩方のことでありました。彼は、疲れた足をひきずりながら、町の中を歩いてきますと、あちらに人がたかっていまし・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
出典:青空文庫