・・・ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様に汚して上の二字は綺麗に保存しているのもある。一方ではまたちっともそうした・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 小な汚しい桶のままに海鼠腸が載っている。小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのはである。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。先生は汚らし・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・これは少し手数が掛るなと思っていると、それから糞をして籠を汚しますから、時々掃除をしておやりなさいとつけ加えた。三重吉は文鳥のためにはなかなか強硬である。 それをはいはい引受けると、今度は三重吉が袂から粟を一袋出した。これを毎朝食わせな・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・此人たちは私を汚しはしなかったよ。お前さんも、も少し年をとると分って来るんだよ」 私はヒーローから、一度に道化役者に落ちぶれてしまった。此哀れむべき婦人を最後の一滴まで搾取した、三人のごろつき共は、女と共にすっかり謎になってしまった。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・一 巫覡などの事に迷て神仏を汚し近付猥に祈べからず。只人間の勤を能する時は祷らず迚も神仏は守り給ふべし。 巫覡などの事に迷いて神仏を汚し猥に祈る可らずとは我輩も同感なり。凡そ是等の迷は不学無術より起ることなれば、今日・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙らしむることあれば、憤怒の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつ・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・金玉もただならざる貴重の身にして自らこれを汚し、一点の汚穢は終身の弱点となり、もはや諸々の私徳に注意するの穎敏を失い、あたかも精神の痲痺を催してまた私権を衛るの気力もなく、漫然世と推移りて、道理上よりいえば人事の末とも名づくべき政事政談に熱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・黄色い砂が津浪の様に押寄せて来ては栄蔵の鼻と云わず口と云わずジャリジャリに汚して行く。 ややもすれば、飛びそうに浮足立って居る、頭に合わない帽子を右手で押え片方の手に杖を持って、細い毛脛を痛いほど吹きさらされながら真直な道を栄蔵はさぐり・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・その心持も厭だし、春は我々こそと云うように、派手な色彩をまとった婦人達が、吹き捲る埃風に髪を乱し、白粉を汚し、支離滅裂な足許で街頭を横切る姿を見るのも楽でないことだ。京都など、そのように不作法な風が吹かないしほこりは立たないし――高台寺あた・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
・・・ 冬の最中に、銃の手入をするのが一番つらかったと云った、赤切れから血がながれて一生懸命に掃除をする銃身を片はじから汚して行く時の哀なさと云うものはない。銃を持って居る手がしびれ、靴の中の足がこごえて、地面のでこぼこにぶつかってころんだり・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫