・・・金が夢のように費いはたされて、彼らが零落の淵に沈む前に、そうしたこの町相当の享楽時代があった。道太の見たのはおそらくその末期でしかなかったが、彼女はその時代を知っていた。 下へおりていくと、お絹が流しの方にいた。白い襦袢に白い腰巻をして・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲が物すごい壁のように棚曳き、沈む夕日は生血の滴る如くその間に燃えている。真赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く鈍り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。あの夕日の沈むと・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」 自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待って・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 行李は、ひょうきんな格好で、水を吸って沈むまでを、浮いてごみ屑と一緒に流れた。「どうしたんだい。一体、お前気でも狂ったんじゃないのか」 セコンドメイトは、ポシャッと云った水音で振りかえってそう云った。「首なし死体を投り込ん・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・侮辱の下に伏従する者を見て賢婦貞女と称し、滔々たる流風、上下を靡かして、嫉妬は婦人の敗徳なりと教うれば、下流社会も之を聞習い、焼餅は女の恥など唱えて、敢て自から結婚契約の権利を放棄して自から苦鬱の淵に沈むのみならず、男子の狂乱以て子孫の禍源・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・たる小説あらんに、其の本尊たる男女のもの共に浮気の性質にて、末の松山浪越さじとの誓文も悉皆鼻の端の嘘言一時の戯ならんとせんに、末に至って外に仔細もなけれども、只親仁の不承知より手に手を執って淵川に身を沈むるという段に至り、是ではどうやら洒落・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。誰が投げたかライフブイが一つ飛んで来ましたけれども滑ってずうっと向うへ行ってしまいました。私は一・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・大衆的な某誌は、その反動保守的な編輯方針の中で、色刷り插絵入りで、食い物のこと、悲歎に沈む人妻の涙話、お国のために疲れを忘れる勤労女性の実話、男子の興味をそそる筆致をふくめた産児制限談をのせて来た。 また、或る婦人雑誌はその背後にある団・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
鍋はぐつぐつ煮える。 牛肉の紅は男のすばしこい箸で反される。白くなった方が上になる。 斜に薄く切られた、ざくと云う名の葱は、白い処が段々に黄いろくなって、褐色の汁の中へ沈む。 箸のすばしこい男は、三十前後であろ・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛えていて、ひとり和やかに沈む癖があった。 東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染った高田は仰向きに倒れて空を仰いだときだった。灯をつけた低空飛行の水上機が一機、丘す・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫