・・・渠らのある者は沈痛に、ある者は憂慮わしげに、はたある者はあわただしげに、いずれも顔色穏やかならで、忙しげなる小刻みの靴の音、草履の響き、一種寂寞たる病院の高き天井と、広き建具と、長き廊下との間にて、異様の跫音を響かしつつ、うたた陰惨の趣をな・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総下総の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。 省作・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・唯、文学論としてよりは小生一個の希望――文学に対する註文を有体に云うと、今日の享楽主義又は耽美主義の底には、沈痛なる人生の叫びを蔵しているのを認めないではないが、何処かに浮気な態度があって昔の硯友社や根岸党と同一気脈を伝うるのを慊らず思って・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・』先夜ひそかに如上の文章を読みかえしてみて、おのが思念の風貌、十春秋、ほとんど変っていないことを知るに及んで呆然たり、いや、いや、十春秋一日の如く変らぬわが眉間の沈痛の色に、今更ながらうんざりしたのである。わが名は安易の敵、有頂天の小姑、あ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・正客の歌人の右翼にすわっていた芥川君が沈痛な顔をして立ち上がって、自分は何もここで述べるような感想を持ち合わさない。ただもししいて何か感じた事を述べよとならば、それは消化器の弱い自分にとって今夜の食卓に出されたパンが恐るべきかたいパンであっ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・躁狂な響を権柄ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰欝、天然の沈痛よりも一層厭である、聞き苦しい。余は夜着の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているよ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・骨肉の情いずれ疎なるはなけれども、特に親子の情は格別である、余はこの度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。余はこの心より推して一々君の心を読むことが出来ると思う。君の亡くされたのは君の初子であった、初子は親の愛を専らにするが・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 時に栄蔵の口から、お金を呪う様な言葉がとばしり出ると後には必ず、哀願的な、沈痛な声でお君をたのむと云った。 そう云われる度びに恭二は、何とも知れず肩のあたりが寒くなって、この不具者について不吉な事ばかりが想像された。 何故・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・中には、事と心と相伴って、沈痛な、深刻な、全く他には見られない歌がある。 文学がその本質としていかに現実を雄弁に語らざるを得ないものであるかという動かしがたい実例を、ここにも私たちは見るのである。・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
・・・ 野良日にやけて、雀斑が見えるようになった顔を沈痛にふせた。「瀬川はそれでいいかもしれないけれども――」 瀬川夫婦の友人に玉井志朗という男があった。大学が同期で、学内運動の先頭に立っていた秀才であり、万事目に立つ男だったのが、つ・・・ 宮本百合子 「風知草」
出典:青空文庫